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8月29日 御言葉の説教「答えの先にある問い」

主イエス様が、たとえを用いられた理由は「弟子たちには天の国の秘密を悟る ことが許されているが、あの人たちには許されていない」(10-11 節)、旧約の預 言の成就(イザヤ 6 章)とありますが、弟子たちがさらに主に近づくためになさ れたものであること、そして、弟子以外の人たちにも、さらに考えさせることに よって心の深い部分で、自分を見つめなおさせる意味があったと思うのです。

 

主イエス様の使命は人類の救済という、とてつもない使命だったのです。神様 の力を使えば、それはあっという間になされたことかもしれませんが、主なる神 様は、人と同じ姿になって同じ苦しみを味わわれながら、それをなさろうとされ た。一人一人に語り掛けて招くという途方もない方法を用いられたのです。しか しその方法は、人間側から見れば、神様の存在を実感し、神の愛に感謝すること ができる方法でもありました。だからこそ、すぐに主に従うことのできる者には 簡単に話し、なかなか主に従うことのできない者には、毒麦のたとえや、悪い魚 のように終わりの日の裁きの恐ろしさを語って、悔い改めを迫る必要があったの です。大切な人が何か間違いをしている時、危険が迫っている時、優しい言葉で それを告げることなどできません。けたたましく災害の危険を知らせるスマホの 音のように、それぐらいしないと、私たちは危険を感じ取ることができないので す。それは神様との関係においてもそうなのです。自分の罪にすら気づかない人 に対して、主イエス様は救うために、たとえによって人々に語りかけたのでした。

 

主は弟子たちに「これらのことがみな分かったか?」と問われました。弟子た ちは「分かりました」と答えましたが、どうも軽い感じがします。実際、本当に 分かるのは主が十字架につけられ、3日後に復活してからのことと私たちは知っ ていますが、これは、私たちへの問いでもあると思うのです。マタイ13章を学 んできて「これらのことがみな分かったか?」と私たちも主に問われているので す。主から問われた問いに真剣に向き合うということが、信仰者にとってなくて はならない態度なのです。