ファリサイ派の人々は、主イエス様の弟子たちの食事の前に手を洗わない姿を見て、なぜ手を洗わないのかと尋ねました。神の律法を重んじていたユダヤ人は汚れということに非常に敏感でした。神が聖なるお方ゆえに、とことん不浄を嫌いました。それが少しずつ拡大解釈されて、律法には書かれていない、例えば今日のようなことも、『言い伝え』として律法と同様に考えられていましたし、律法学者やファリサイ派の人々はさも神の掟のように教えていたのです。
それに対して主は「自分の言い伝えのために神の言葉を無にしている」と反論されました。その根拠が4-6節にあるような、律法と彼らの言い分の矛盾でした。主はさらに人々に言いました。「聞いて悟りなさい。口に入るものは人を汚さず、口から出てくるものが、人を汚すのである」と。主はただの衛生的か不衛生かを言われたのではなく、神の前で清いとはどういうことか、汚れているとはどういうことかを示そうとされたのです。主は律法で汚れているとされた人々と積極的に接し、病人の汚れた傷口をさわって癒されました。主イエス様にとって、「みだらな行い、盗み、殺意……」このようなものこそ、汚れだと語ったのです。
私たちも聖書を読んで、時々どちらが正しいのだろうかと思う言葉にぶつかります。旧約聖書には、異教徒を滅ぼし尽くせと書いてありながら、同時に殺してはならないと十戒は教えます。さらに主は敵を愛しなさいと言われる。そのような矛盾から、神を信じるものを殺してはならないが、異教徒はよいという解釈が生まれてしまうのです。そのような過激な解釈がタリバンやイスラム国がしているような、異教徒の排斥(殺人)につながるのです。しかし、それは間違った解釈なのです。私たちは「神の御心はいったい何なのか」を真剣に問いつづけることが、大切なのです。もし、家に仏壇があってそれを偶像だから捨てた方が良いというのは簡単でしょう。しかし、そのことがキリスト者としての証しになるのか、その判断をするのは自分自身なのです。その判断をするときに「主イエス様だったらどうされるだろうか」を考えてみてください。怒りや憎しみといった感情が心を支配している時に、祈ること。それが主に従う道です。