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10月17日礼拝メッセージ「奇跡再び」

 主イエス様一行は、ティルス・シドンから、ガリラヤ湖対岸の異邦人の地に向かいました。そこに大勢の群衆が、病人を連れてやってきたのです。主が病人の手を取り、声をかけられると、口のきけなかった人は話すようになり、体の不自由な人は動けるようになり、目の見えなかった人が見えるようになったのです。彼らは主の福音を山上の説教のように聞いたのではなく、その体で感じたのでした。それはもう一つの山上の説教でした。彼らはイエス様のもとを去り難かったのでしょう。多くの人が、イエス様のそばから離れませんでした。主はそのような群衆を見て、弟子たちに「群衆がかわいそうだ。もう3日も私と一緒にいるのに食べ物がない。空腹のままで解散させたくはない。途中で疲れ切ってしまうかもしれない」と言われました。そして主は5000人以上の人々にパンと魚を分け与えたのと同じように、そこにあった7つのパンと少しの小魚を祝福して人々に配ったのです。今回は男だけで4000人の人がそこにおり、残ったパンくずは7つであったと聖書は記しています。

この奇跡が2回も起こったのだろうかと疑問に思いますが、マタイとマルコは、それが2回あったことを明確に証言しています。「まだわからないのか。覚えていないのか。パン5つを5000人に分けた時、残りを幾かごに集めたか。また、パン7つを4000人に分けた時は、残りを幾かごに集めたか。」(マタイ16:9,10) 

マタイ福音書は、この奇跡が異邦人のためになされたこと、また弟子たちの無理解さを象徴する物語としていることが、大事な所なのです。異邦人も又、信じる者たちはユダヤの民のみならず、救われるのだということを表しています。

弟子たちの無理解さは、主イエス様の十字架の死、そして復活まで続く出来事です。主を理解せず、何度奇跡を体験していてもその都度、初めて体験するかのような弟子たちですが、私たちもまた、主の救いの奇跡を何度経験していても、主を疑ってしまう弱い人間です。しかし、それでも主は私たちの心をパンくずで籠が満たされたように、満たしてくださるのです。