· 

10/24 礼拝メッセージ「疑う心」

ファリサイ派とサドカイ派の人々が来て、主にモーセがエジプトを脱出した時に現れた雲の柱や火の柱のような「天からのしるし」を求めました。主が様々な奇跡をされていることを彼らは知っていましたが、それでは満足しなかったのです。主は天気を引き合いに出し、空のしるしは分かっても、時代のしるしが分からない人々を嘆きました。心の目が欲によって曇っていれば、いくら素晴らしい業が行われても、信じる事など出来ません。主イエス様ははっきりと、この時代を「よこしまで神に背いた時代」と言われました。神様のみ旨が本当はどこにあるのかを見わけられないのが、イエス様から続くこの時代なのです。主イエス様は、「ヨナのしるし」、つまりヨナが大きな魚に飲み込まれて、3日3晩過ごし、助かったように、主イエス・キリストが十字架にかかり死んで3日目に復活されたその出来事だけが世に示されるべきしるしと主はお語りになったのでした。

そして主は、「ファリサイ派とサドカイ派のパン種に気をつけろ」と言われました。ファリサイ派は、昔の人の言い伝えを重んじ、サドカイ派は、この世的な目の前のことを重んじていました。ですから、現代に生きる私たちがこの主の言葉を聞くならば、伝統や普段の生活というパンだねに気をつけろ、「まず神の国と神の義を求めなさい」ということなのだと思います。イエス様は「見ないで信じる者は幸い」とおっしゃいました。しかし弟子たちは、主の不思議なわざを見て従ったのです。ペテロやアンデレは漁をしていた時に、マタイは収税所で名前を呼ばれて従いました。彼らは心動かされたのです。他の誰にもない何かを主イエスに見たのです。私もまた、見て信じたように思うのです。それは天変地異ではありません。聖書の中にある、誰よりも私を愛してくれている神の姿を主イエス様に見たのです。「あなたを休ませてあげよう。」そうすると、本当に不思議な奇跡が日々起こるのです。奇跡を見せてくれと言って奇跡は起きません。しかし、信じる心をもつ者に奇跡は起こるのです。私たちの罪を贖って下さるそのしるしだけに私たちは望みをおこう。