主イエス様は、自分が殺され、3日目に甦ることを弟子たちに打ち明けましたが、一番弟子のペトロは「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」と主をいさめました。しかし、主は「サタン、引き下がれ」と一喝します。主イエス様を神の子と告白したペトロですが、主イエス様を心配しているようでいて、実は自分のことを心配していたのです。
主はさらに続けます。「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る」と。ここで言う自分とは、欲や自己中心的な考えです。そして十字架とは、捨てたいもの、あってほしくないもの、自分に課せられた使命です。誰もが、自分に得するものを欲し、損になるものを捨て去りたいと思いますが、実は、人生をよく生きるためには、その嫌なもの、損と思うものをしっかりと見つめていかなければならないのです。自分にとって嫌なものにいかに向き合うかで、人生という道はその後大きく変わってくるのです。そう考えると、十字架が嫌なものとしてではなく、とても大切なものであることに気づかされます。
自分の生まれ育った境遇や、今の自分の置かれている状況を私たちはしがらみのように思うのですが、それは私たちを形作るものなのです。もし生まれ変わって望むような家や容姿に生まれたとしても、やはり、もっともっとこうあればという欲は尽きないのです。そうではなく自分という存在に満足し、精一杯生き切るという姿勢が大切であり、それが十字架を背負って、主に従うということなのです。それでも抱えきれない不安や悩みは主イエスに頼るのです。「私の元に来なさい。休ませてあげよう」という言葉を信じて。