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1/16 礼拝メッセージ「イエス様に聞く」

 主イエス様の十字架の死と復活の予告を聞いたペトロら弟子たちは、悲しみと不安の中に置かれたのではないでしょうか。そのような弟子たちを見て、主は、弟子たちを山に誘います。ルカ福音書9章には「祈るために」と書かれています。イエス様は「祈ろう」と、弟子たちの中から、ペトロとヤコブとヨハネだけを連れて山に登りました。ヘルモン山なら、この山は標高2800mだそうですから、丹沢の塔ノ岳1500mよりもさらに高い山です。もちろん、頂上を目指したわけではないでしょうが、息を切らせて登ったことでしょう。主の一行は山に着くと、弟子たちは不思議な光景を目の当たりにするのです。なんと、そこにはモーセとエリヤが主イエスと話し合う姿を見るのです。彼らは旧約の律法と預言の象徴です。このとき、弟子たちは雲の中から主なる神様の声を聞きます。「これは私の愛する子、私の心にかなう者。これに聞け」神様はこれに聞けと言われました。モーセとエリヤは消えて、イエス様が残ったということ。これはそれまでの律法と預言が主イエス・キリストによって、完成され成就したことを意味します。律法も預言も主イエスによって成就している。分からないことがあったら、律法や預言に聞かずとも主イエスに聞けばいい。主イエスに従えばいいのです。だからこれに聞くのです。

 

 ペトロは、何かしなければとおもい「3つの記念するものを建てましょう」といいました。これはネヘミヤ記8章にある仮庵の祭りに基づいた言葉でしたが、この時は仮庵の祭りではないので、山に登ってすることをとっさに思いついた彼らしい言葉です。聖書は、弟子たちを教会の偉大な指導者ではなく、不思議な出来事に接して、茫然としたり恐ろしく思ってしまう普通の人間として描いていますが、彼らの姿は私たち自身の姿でもあるのです。主イエスだけを頼ればいいのに、自分の知恵や力に頼ろうとする。「これに聞け」と神自らが言われた主イエスに聞かないで、別の何かに聞こうとしてしまうのです。

 

 ただ主イエス・キリストだけを見つめて、声を聞く。現代に生きる私たちは、聖書を読み、祈ることによってそれができるのです。

 

 彼らは、主から十字架を負いなさいと言われました。叱られて、高い山に登って疲れていたその足取りはまさに十字架を背負って歩いているような気持だったでしょう。しかし、その先に、栄光に輝く主を見ることができたのです。私たちも与えられた人生の道を歩きとおすならば、栄光の主イエス様と出会えるのです。