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3/6 礼拝メッセージ「人として試される私たち」

 ファリサイ派の人々が、離婚について主イエス様に質問をしました。実は、律法学者の中にも、離婚に寛容な立場と離婚を認めない立場があり、論争になっていたのです。創世記では、神は男と女を作られ、結婚をさせたという考え方があり、もう一方モーセが神から与えられた律法では離婚することも良しとする考え方がありました。彼らは答えに窮する主イエス様を見せて、人々の前で恥をかかせたかったのです。

 

 しかしイエス様はあえて、「神は、男と女を作られた。…人は離してはならない」と語り、男性側からの好き勝手な離婚は、神様の許されることではないと語ったのです。そのような理不尽な離婚は姦淫の罪と同じだと。しかも、結婚することが、すべてではなく独身でいることも神様が与えた人の生き方の一部であることを語っています。

 

 この教えに弟子たちは「結婚しない方がまし」と驚いていますが、今に生きる人々にとっても驚きです。今日、離婚は一般杜会において驚くべきことではなくなりました。神様は男も女も平等に創造され、家庭内暴力など理不尽な理由で正常な夫婦生活がおくれない場合は、対等な立場で離婚も許されるのです。それでも、一時の感情で離婚を決めることは慎まなければならないことです。カンバーランドの信仰告白も軽々しく破棄されるべきものではないとしています。夫婦に子どもがいる場合は、さらに慎重さが求められます。子どもが安心して育つ環境と、神様の祝福は同じと言っても過言ではありません。親の互いを尊重する態度をみて、その子どもは夫婦の在り方を学ぶのです。完全な人間はいませんが、だからこそ、パートナーを神様が与えてくれた存在と尊敬し、自らの弱さを認め、互いの足りないところを補い合って成長することを主は願っておられるのです。結婚生活の中で、育児の中で、私たちは「愛する」ということを人として試されるのだと思います。