ある家の主人がぶどう園で働く人を雇うために、朝早く夜明け前に出かけて、一日につき1デナリオンの約束で人を雇います。このデナリオンというのは、当時肉体労働者が一日働いて手にすることのできた平均的な額です。そして、9時ごろにも出かけると、広場に立っている人たちがいたので、その人たちも雇いました。そういうことを12時・3時・5時としました。そして、夕方6時にその日の仕事が終わり、後から来た人から先に賃金が支払われました。最初にお金を受け取った人は実質1時間しか働いていませんでしたが、なんと1デナリオン受け取ったのです。それを見ていたもっと前から働いていた人たちは、余計に働いているのだからもっともらえるだろうと期待しました。しかし支払われた額は同じ1デナリオンでした。不公平だと思って労働者たちは主人に抗議をしますが、最初にこの1デナリオンという額で契約したのだから、それで満足しなさい、というのです。
私も、初めてこの箇所を読んだ時、なんと不公平で馬鹿なたとえだと思いました。朝早くから働いていた人と、1時間しか働かなかった人が同じだとは。しかし、横浜寿町や東京山谷で実際に日雇い労働者の生活を知り、この考えは大きく変わりました。そこには7節の言葉にあるように「誰も雇ってくれない」辛さ・厳しさ・孤独があるのです。
神がこの世界の主権者として、人間が人間として扱われ、尊厳が回復される場所、一人一人の幸福が約束される場所、これが神の国の在り方だと、主イエス様は語るのです。主イエス様が約束して下さる神の国の時給は、この世の物質的な豊かさではない、生きる喜びそのものなのです。「自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後のものにも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ」。これが神様の恵みであり、公平なのです。聖書は、不公平で過酷な生活を余儀なくされている人々に「耐えられない試練は与えられない」とも語ります。神様はきっと、私たちの苦難に倍する恵みを与えてくださいます。