十字架にかけられて殺されるという預言をしながらも、エルサレムに向かおうとされるイエス様に、弟子たちは驚き恐れましたが、彼らがイエス様についていこうと思えたのは、イエス様が「私についてきた者は、イスラエルを治める座に就き、100倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ」という言葉によってでした。
そのような中、ゼベタイの子ヤコブとヨハネとその母親が主イエス様に自分たちをあなたの右と左に座らせてくださいと願い出ました。イエス様は、山上の変容の時には、ペトロとこの二人を連れていきましたから、やはり12弟子たちの間では、ぺトロに次ぐリーダー格だったのでしょう。主イエス様がユダヤの王になるとき、自分たちに権力と名声を与えてほしいと願ったのです。それに対して、主イエス様は二人に「私の飲む杯を飲むことができるか」と問われ、自分の右と左に座るのは、父なる神様が決めることだと諭されたのです。
しかし、話はそれで終わりませんでした。他の10人の弟子たちがこの二人の願いを聞いて怒り出したのです。実は彼らもそのような願いを心の中に秘めていたからです。イエス様は、このような弟子たちの姿をみて、神の国での偉さは、仕えることなのだと語られ、そのことをはっきり分からせるために、十字架に掛かる直前、弟子たちの足を洗われたのでした。
私たちは、私たちの欲望のままに、あれが欲しいこれが欲しいと、神様が喜ばれるものとは全く違うものを祈り求めますが、主なる神様は最善のものをお与えくださるのです。神が与えてくださるものには、私たちにとって甘いものだけでなく苦いものがあるのです。しかしそれも、私たちに必要なものなのです。ニューヨーク・リハビリテーション研究所にある「病者の祈り」にあるように自分の願いと違っていても与えられたものをしっかりと受け止めることのできる信仰を養いましょう。万事が益となる、そのことを信じて主に従っていきましょう。