主イエス様は、ご自身の時が来られたことを覚え、都エルサレムに進んでゆかれました。都に続く道は、過ぎ越しを祝う巡礼者たちであふれかえっていました。オリーブ山沿いのベトファゲ(イチジクの家の意味)で、主は旧約聖書のゼカリヤ書9:9の預言の成就として弟子にロバを連れて来なさいと命じられました。メシアはイザヤ書53章にあるように、私たちに仕えるものとして、わたしたちの痛みを負って苦しんでくださる存在として示されていたのです。
預言通り子ロバによってエルサレムに入城するその姿を見て人々はこの人こそ、我々を解放してくれる王という確信を持ちました。4つの福音書すべてが、そのようなイエス様を歓喜の中、迎えた民衆の姿を鮮明に描いています。棕櫚の葉というのはナツメヤシの葉のことです。繁栄を象徴するものでしたし、自分の服を道に敷くという行為は列王記下9:13の故事にあるように王様に対してなされた事でした。民衆は、主イエス様をメシアとして迎え入れました。「ダビデの子にホサナ!」この人こそ、自分たちの願いをかなえてくれる存在と信じていました。しかし、主がなされた宮清めの出来事によってエルサレム神殿を重んじる人々は、ファリサイ派、律法学者と同様に、主イエス様を神を冒涜する存在ととらえたのです。
私たちもまた、時としてこの民衆と同じになるのではないでしょうか。たとえば、ここに主イエス様がおられるとします。あなたのうちに行くのです。そして、神の国に入るために不必要なものを処分しだすのです。一生懸命働いて買った高級な洋服、ブランド物のバッグ、車そんなものを処分しだしてしまうのです。最初はイエス様に来ていただいてうれしかったはずですが、ちょっとイメージと違うことに困惑を覚えだすと思うのです。これは極端な例ですが、主が来てくださったのは、私たちの生き方に本当に必要なものを与えるためであるのと同時に、不必要なものを捨てるため、価値観を変えるためなのです。私たちは、それでも「ホサナ!救いたまえ」と主を迎え入れたいのです。