· 

5/8 礼拝メッセージ「主が欲したものとは?」

 ベタニアからエルサレムに向かう途中、主イエス・キリストは空腹を覚え、丁度道端にあったいちじくの木からその実を食べようとしたところ、実がなっていなくて、その事をイエス様が怒ったら木が枯れてしまった、というのです。しかしいちじくに実がついていなくたって枯らすことはないだろうと思います。実際マルコ福音書の方には、わざわざ実がなる季節でなかったということまで書いてありますから、イエス様は季節でもない木に向かって無理な注文をしたと読めてしまいます。

 

 しかし、主イエス様がエルサレムに入城した最後の1週間の出来事を思い起こすならば、このイエス様のいちじくへの言葉の本当の意味を私たちは知ることができるのです。聖書には食べ物や動植物が、特別な意味を持つ場合が少なくありません。例えばぶどうやオリーブは繁栄の象徴でした。その中でいちじくというのは、神に従うユダヤの民の象徴とされた食べ物なのです。マルコ福音書では、「葉の茂った」と記されています。青々としたいちじくの木は、一見健康で繁栄を誇っているように見えますが、よくよく見れば実を結んでいなかった。まさにユダヤの民に全く同じことが起きていることを、主は嘆き、憤ったのでした。その象徴がきらびやかなエルサレムの神殿でした。

 

 主イエス様のメッセージは、律法や宗教的儀式を盲目的に重んじている人々に対して、神様を礼拝する信仰とは何か、神様を礼拝するためにある神殿とは何かという問いであり、実を結ぶとはどういうことなのかを私たちに告げているのです。そのような壮麗な神殿と、葉は茂っていても実がないいちじくは同じものなのです。主イエス様が、欲したものは、実はいちじくではなく、「祈りによって不可能が可能となる」という本当の信仰であり、見せかけの繁栄は主に喜ばれず、枯れてしまうということをこの箇所は私たちに語っているのです。

私たちは神の奇跡を待ち望みたいのです。今この瞬間、起きているウクライナをはじめとした世界の悲劇のために。「主よ、どうかお救い下さい」と祈るものでありたいのです。