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5/22 礼拝メッセージ「不法占拠の果てに」

 ぶどう園というのはイザヤ書5章7節ではっきりと「イスラエルの家は万軍の主のぶどう畑」と書かれていたことからわかるように、イスラエルという国であり、民族を表しています。その主人が神であり、農夫たちは、イスラエルを導いていた人々であることも。その農夫たちが主人が遣わした僕たち、つまり預言者に乱暴を働き、さらに主人の息子までも殺した。とうとうぶどう園の主人は、戻ってきて農夫たちを殺して、ほかの人たちにぶどう畑を任せる、というのがイエス様の例えでした。さらに、詩編118編を引用して、捨てられたものが大切な親石となるということを語り、石工がいらないといって捨てた石が、神様が拾い上げて、隅のかしら石、親石、礎石、土台にする。これはどういうことか?あなた方が無用と思っている者たちを神様は用いられ、イスラエルの土台とするのではないか? 預言者が何度も遣わされたがそれに従わず殺してきたのは、いったい誰だったのか!これを聞いた祭司長・律法学者たちは、この例えが自分たちへの当てつけであり、同時に何の権威で行っているのかと主に尋ねた問いへの答えだということが分かったのです。その結果、彼らは主に対してさらに憎しみを増したのです。

 

 主の言葉は、同時に私たちへの言葉でもあります。あの実のならないいちじくの話は、ここにつながってくるのです。主は主の言葉に従うという実を結ぶことを私たちに求めておられます。今、敵をも愛せよという信仰が、試されています。また、捨てるものが親石として用いられる。私たちが軽んじることの中に実は大切なものがある。このことを実生活で実践するならば、私たちは傲慢の罪に陥ることなく、謙虚に生きることができるでしょう。主は捨てられた石のような私を「あなたは高価で貴い」と言ってくださり救ってくださいました。自分の力ではなく、すべては神の一方的な恵みであることを私たちは感謝できるのです。