王宮での婚礼の祝いというたとえの舞台は、主のたとえを聞いた当時の人々にとって素晴らしい、喜びあふれた場所であり、神の国がそこに暗示されていることは容易に理解できるのです。
ですから、この話は神様がすでに選んでいた人々、ここではアブラハムによって祝福が契約として約束されていたイスラエルの民を神の国に招こうと、バプテスマのヨハネをはじめとする預言者たちや、御子主イエス・キリストが遣わされたにもかかわらず、人々は軽くあしらい、そしてついには殺してしまうということが語られているのです。なぜ、人々は祝いの宴を拒むのでしょうか?それは、牛や畑に表されている財産であり、この世の幸福だと聖書は語ります。人々はそれを守りたいがために、神様の招きを拒んでしまうのです。
そのような人々を、主なる神は許さず、滅ぼしてしまい、代わりにもともとの招待客リストにはない人々、つまり国の違いも肌の色の違いも関係なく、とにかく神の国をいっぱいにしようと人々を招かれるのです。
しかし連れて来られた人々の中に礼服を着ていない男を見かけて、「友よ、どうして礼服を着ないでここに入ってきたのか?」と問いただすのです。この礼服というのは、イザヤ書61:10にあったように救いの衣であり、神様によって用意されているものなのです。彼は、礼服を着ることができたにもかかわらず、それを着なかった。招かれた後に、神の教えをしっかりと身にまとわないで、なお自分の考え方、生き方にしがみついていたのです。神様の「なぜ神の国にふさわしい生き方をしないのか?実を結ばないのか?」という問いに、答えることができず、結局は天の国に一度は入ったけれども、また放り出されてしまう人々がいるということを表しているのです。
神様からいただいた招待状だけは、既読スルーせずにすぐに読んで返事をしたいと思うのです。そして、神の国にふさわしい義の衣を着て入りたいと思います。