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7/10 礼拝メッセージ「世の宗教家たちへ」

 この23章は全体が主イエス様の律法学者やファリサイ派への厳しい言葉です。キリスト教に限らず、何かを信じている人々にとって、「信仰と実践」について謙虚に耳を傾けなければならない箇所です。イエス様のアドバイスとして聞くことができれば、自分自身の信仰の成長に有益な示唆が与えられます。

 

 今日の箇所でまず主は、「律法学者やファリサイ派の言うことは、すべて行い、守りなさい」と語られました。「モーセの座」というのは、神様によってモーセに与えられた律法のことです。ですから主は律法をないがしろにはするなと言われているのです。しかし、彼らの行いを見習ってはならないと言われました。彼らは本当の意味で、律法に生きていなかったのです。その例が、汚れを恐れて、病人には触れず、安息日は休むべきと言って、正しいことも行わなかったのです。ファリサイ派・律法学者たちがしていることは、信仰によってではなくただ、自分の正しさを人に見せるための見せかけだと、主は指摘されたのです。それが聖句の入った小箱を大きくするとか、衣服の房を大きくするということに現れていたのです。主は「一番偉い人は仕えるものになりなさい。誰でも高ぶるものは低くされ、へりくだるものは高められる」と、信仰者のあるべき態度を示されています。

 

 私たちも礼拝に集う時、神様より、人のことが気になってはいないでしょうか?お祈りなどはもっともよい例です。時々「私は祈りが下手だから人前では祈りたくない」という方がおられますが、祈りとは、本来神様に聞いていただくものです。しかし、人に聞かれて下手と思われるのが嫌で、祈りたくないという方は結構いるのではないでしょうか?それもまた、一種のプライドと言えるでしょう。マタイ6章でイエス様自身、くどくど長く祈るなと言われているのです。逆に言えば、人前で祈って祈りが成長することも事実です。どうか、下手だから祈れないという信仰は、早めに捨てていただきたいと思うのです。そして、牧師・長老・信徒の区別なく神の家族の一員として共に喜び、共に悲しむ私たちでありたいと思います。