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7/3 礼拝メッセージ「主からの難問」

 いつもは質問される側の主イエス様から逆にファリサイ派の人々に、「メシアは誰の子か」と質問されたのです。彼らは「ダビデの子です」と答えました。メシアとは、ギリシャ語ではクリストス、つまりキリストです。これは「油注がれたもの」という意味で、もともとは祭司の任職や王の即位の時に、貴重な油が頭に注がれたことに由来し、ユダヤ民族の正当なリーダーを表す言葉となりました。そして、現在では全人類を救う救世主が、メシアと呼ばれています。当時のユダヤは、ローマ帝国に支配され、ローマ帝国に統治する権限を与えられていたヘロデ一族は、もともとエドム人という異民族でしたから、ダビデ王の血筋の人物が、異民族を追い出して民族の尊厳を回復してくれる人を民衆は待っていたのです。ファリサイ派の人々もその点は同じでした。ダビデ王に連なる人物が、我々を率いて国を立て直してくださる。そのように考えていたのです。ですから、「ダビデの子」がメシアであることは間違いのない答えでした。これは、私たちキリスト教でも、引き継がれている教えです。

 

 しかし、主イエス様は、詩編110編より、ダビデにわが主と呼ぶ存在がおり、その存在が「主なる神の右の座に就く」とされていることを取り上げて、45節にあるように「このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのであれば、どうしてメシアがダビデの子なのか」とファリサイ派・律法学者たちに問うたのです。ファリサイ派・律法学者たちは、メシアはダビデの血筋から現れると信じていたので、誰一人、イエス様の問いに答えられる人はいなかったのです。

 

 「メシアとは誰か」この問いに答えるために、私たちは真剣にみ言葉に向き合うことが必要です。わかったふりなどしないで、真剣に祈りの中で問い、聖書を読むのです。しかし、今私たちが直面している事柄は、良いことも悪いことも、私たちにあることを問いかけていると思うのです。「あなたは何を信じているのか」と。