この10人のおとめのたとえは、間違いやすいのですが、おとめというのは花婿の家で、花婿と花嫁を待っている友人か僕の女性たちのことです。真夜中になってやっと花婿が花嫁を連れて帰ってきた時に、彼女たちに事件が起きました。「油がない!」10人のうち半分の5人の油が切れてしまっていたのでした。仕方なく5人は買いに行き、なんとか手に入れますが、花婿は既に到着し、婚宴が始まってしまい、買いに出た女性たちは締め出されてしまう、というのがこのたとえの粗筋です。このたとえは、24章から始まる「目を覚ましていなさい」というこの世界の終わりの時の警告を主イエス様がしたものでした。「いつ自分の主が帰ってこられるのか、あなた方には分からないからである」と24章42節にはあります。そのような時の問題と、45節以下の僕としての態度の問題が、この25章では一つとなって、その時がいつかは分からないが、準備を怠らず備えていなさいという、たとえになっているのです。
しかし、このたとえでは、良いとされた5人のおとめも眠り込んでしまっています。これは誰もが眠り込んでしまう現実を言い表しているのです。主イエス様がゲッセマネの園で血を流しながら祈っていた時に、12人の弟子たちは眠り込んでしまっていました。それが人間の現実なのです。私たちもまた、神の国はまだ来ないのか、そんなことを考えながら、現実の生活に埋没して「眠ってしまっている」ことが往々にしてあるのです。
だからこそ、目覚めてすぐに対応できる「備え」が大切なのです。
信仰生活において、「備える」とは、日々の様々な苦しい出来事に誠実に向き合っていく中で、主なる神様に祈り、神様とのホットラインをしっかりと確保すること、これこそ信仰者にとって何よりの備えなのです。さらに、主日を大切にする中で、信仰生活のリズムを整えておくということも大切なことです。神様から「お前を知らない」と言われないように、この1週間も備えてまいりましょう。