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10/16 礼拝メッセージ「あなたでなければいいのに」

 主は、過ぎ越しの祭りの食事を弟子たちに内緒であらかじめ用意されていました。除酵祭とも呼ばれる過ぎ越しの祭りは、イスラエルの民が主の導きでエジプトを脱出した事を記念するため守られてきた祭りです。主の弟子たちもいつもと同じように過ぎ越しの祭りを祝おうとしていました。しかし、主は衝撃的なことを言われました。「あなた方のうちの一人が私を裏切ろうとしている」。弟子たちは動揺します。「まさか、わたしのことでは」22節を見ると代わる代わる言っていたとあります。彼らの心の中に、何か心あたりになる落ち着かないものがあったのでしょうか?事実、弟子たちは主イエスが逮捕されるときに逃げてしまいました。弟子たち全てが、そのような意味で裏切ったのです。

 

 主は、あえて誰と言わず23節「わたしと一緒に手で鉢に食べ物を浸したものが、わたしを裏切る。」と言われました。そして、24節「人の子は…生まれなかった方が、その者のためによかった」と言われるのです。イエス様を裏切ることになるイスカリオテのユダについて、様々な意見があります。ユダは、神の計画の中で、その役割を与えられたのだから、彼は天国にいるのではないか。という意見もあります。しかし、イエス様の言葉を見るなら、残念ながらそのような温情的推測はできません。この部分のギリシャ語の意味は、深い悲しみを表しているからです。主の十字架は神様の計画であったとしても、裏切ることまでもが、神様のご計画であったとは思えないのです。神様は私たちに自由意思を与えておられます。ユダにも裏切らない生き方の選択があったのではないかと思うのです。

 

 しかし、ユダの心は私の心です。み言葉を語りながら、いろいろな悩みの中で喜んで生きていない自分、自由にされていない自分、不平ばかりを言っている自分は、まったく弟子として失格だと思うのです。しかし、聖餐があるごとに主の愛のまなざしを感じるのです。「私はあなたを愛している」と。3度主を裏切ったペトロが赦されたように、私たちも、主の裂かれた体、流された血を思い起こす時、もう一度主に向かって立ち上がる力をいただくのです。