マタイ26章は主イエス様の終末についての話が終わり、十字架の贖いの時が近づく場面となっていきます。1節「これらの言葉をすべて語り終えると」とは何と重い響きでしょうか。イエス様の地上での働きが十字架の死だけを残して完了したような響きです。イエス様を殺そうという思いはすでに、マタイ12章に出ていました。安息日には病を癒すことすら許されていないと、ファリサイ派の人々は信じ、イエス様の病を癒す力を悪魔の力のように理解していたのです。そして、イエス様も公然とファリサイ派や律法学者を批判しましたから、もう、対話の余地などなかったのです。権力者たちは、いかにして主イエス様を捕らえようかと話し合っておりましたが、同時にエルサレムにいて捕まえやすいからと言っても、多くの人々が集まっている祭りの期間に捕らえることは、暴動につながりかねないことを恐れました。ひとたび暴動が起きれば、その罪が自分たちに及ぶことを権力者たちは恐れていました。ですから、祭りの期間はイエス様を捕らえるのを止めようという話で落ち着いたのです。
しかし、話は急転直下変わってきます。内通者が現れたのです。それがイスカリオテのユダでした。ユダは会計係をしており、不正を働いていたとヨハネ12:6には記されています。ユダは「あの男をあなたたちに引き渡せば、いくらくれますか?」と持ちかけ、祭司長たちは銀貨30枚をユダに与えたのです。銀貨30枚とは労働者の4か月分の賃金でした。もしかしたら、不正を働いていただけでなく、主イエスが自分が思い描いていたメシアではなく、失望したからかもしれません。この内通者の出現に、祭司長たちは喜んで、祭りの間に事を起こそうと決意していくのです。
なんでこんなことをユダはしたのだろうかと、多くの人々が考えてきました。しかし、私は思うのです。人は自分のためなら、たやすく大切な人さえ裏切れると。しかし私は、ユダを悪くは言えません。ユダのような心の弱さを私は持っていることを認めなければなりません。それでも、いやだからこそ、主は私たちの罪を担うために、この世に来てくださったのです。