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10/23 礼拝メッセージ「最後の晩餐」

 この聖句は毎月の聖餐式で用いられる箇所です。しかし、私たちは勝手な思い込みで、この最後の晩餐をイメージしているのではないかと思うのです。 

 皆さんはレオナルド・ダ・ヴィンチが描いた「最後の晩餐」をイメージしておられるかもしれません。しかし、当時のエルサレムでは、床に座り低いテーブルで食事をするのが一般的だったそうです。あのダ・ヴィンチの絵はもともとイタリア・ミラノの修道院の食堂に描かれたものですから、修道士たちは、食事をするたびに、イエス様や弟子たちと共に食事をする思いになったことでしょう。そのような最後の食事を追体験するということを、主イエス様も願っておられたのだと思うのです。

 

 しかし、歴史的に見れば、パンとぶどう酒(ジュース)をめぐって、多くの意見の違いを生み、論争となってきました。カトリック教会の教えでは、パンとぶどう酒は、それを口にする時、イエス様の肉と血に変わると教えています。ですから、パンとぶどう酒を「ご聖体」と言って重んじます。プロテスタント教会は、パンとぶどう酒が変わるのではなく、そこにキリストの霊が共にあるという理解をしてきたのです。イエス様は、私たちの罪のために十字架にかかられたこと、イエス様を十字架にかけたのは私たちであったこと、そのことを、実際に自らの口で味わい、霊的に確かめること、それがエレミヤ書に記された新しい契約であり、私たちが聖餐式に与る理由だと思うのです。カトリックのようにパンとぶどう酒がキリストの体と血に変化しなくても、その重要性は変わりません。私たちは普通の食パンや、アルコールに弱い方たちに配慮したジュースでも、主の十字架の愛を十分、想い起こせるし、想い起こさなければなりません。聖餐式の大切さは、用いられる材料にあるのではないのです。それ以上に、今回コロナ禍で外出が許されず、何年も聖餐式に与れない兄姉がいることを、私たちは覚えなければなりません。聖餐に与る時、ぜひ、見える説教、味わう説教として十分に味わい知っていただきたいと思います。