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11/27 礼拝メッセージ「待降節① 望みはある」

 クリスマスの飾りつけをしたあと、通りかかったご近所の方が、「ああ、もうそういう時期になったんだね」と声をかけてくれました。クリスチャンでなくとも、クリスマスは、楽しい行事であることは、誰もが知っていることですが、しかし、どうしてクリスマスが嬉しく、楽しいのかを考える人は多くありません。知っているという人でも「処女マリアから神の子が生まれたから」とか「イエス・キリストが生まれた日だから」と答える人が大部分だと思うのです。ではどうして神の子がお生まれになったのでしょうか? それは、私たちの救いのためなのです。イザヤ書が書かれた時代から今に至るまで国々の争いは、続いています。私たちは連日、ウクライナで起きている戦いを見ています。そして、それが一つ間違えば、世界規模の戦争の引き金になることを恐れています。同じような火種は、中国にもあり、香港を一方的に従えたように、台湾を統一の名のもとに武力で支配する可能性はますます高まっています。ロシア・アメリカ・中国といったイデオロギーの違う大国同士が衝突すれば、それは第3次世界大戦であり、核兵器が使用されれば、人類そのものの滅亡につながってしまうでしょう。第2次世界大戦が終わって77年、キューバ危機から60年が経ちましたが、今ほど全人類が戦争だけでない、地球温暖化などの問題も含めて岐路に立っている時はないのです。

 

 しかし、だからこそ、主なる神様は、御子イエス・キリストをこの世に送ってくださったのです。私たちが心のみなし子にならないために。主イエス様のご降誕は、私たちの罪をその身に受けるために十字架にかかるためでした。イエス様の誕生と、十字架の死は、同じ意味を持っています。私たちは、私たちの罪の故に、暖かいベッドではなく、冷たい家畜小屋の飼い葉おけでお生まれになり、十字架の上で苦しまれた主イエス様を思い巡らすのです。ここに、アドベントとクリスマスの本当の意味があるのです。希望が見えない時代に、それでも、いやだからこそ望みはあるのです。