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12/4 礼拝メッセージ「待降節② 悔いる者のために」

 イザヤ書59:12-20には、人の罪の大きさ、重さが記されていました。そもそも人は、最初の人アダムとエバが悪魔の誘惑によって、神の言葉に従わず、罪を犯しましたが、それは神ではない自己中心の罪でした。ここから、殺人や盗み、戦争といった全ての罪が派生しているのです。このことをイザヤ書は16節「主は人一人いないのを見、執り成す人がいないのを驚かれた」と記します。そのような自己中心という罪から抜け出せない人類に対して、主なる神は、主自ら人の救いのために立ち上がられたのです。20節にあるように、「主は贖うものとして、シオンに来られ」たのです。それが、御子イエス・キリストなのです。さらにイザヤ書は「罪を悔いる者のもとに来ると主は言われる」と記しています。自らの罪を悔いる、それは罪の告白、信仰告白のことです。自分の神なしで生きてきた間違った生き方を認め、神様に謝るということです。「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われる」(ローマの信徒への手紙10:9)とある通りです。

 

 マタイによる福音書13章には、イエス様が、郷里ナザレで、あまり奇跡をなさらなかったことが記されていましたが、その原因はイエス様を、大工ヨセフの子といって軽んじた不信仰でした。人々は信じる心ではなく、何か見世物を見るかのように奇跡を期待していたのです。しかし、奇跡は信じる心に起きるのです。そのように考えると、イエス・キリストの十字架の死によって、全人類の罪はすでに赦されているが、自分に罪があることを認め、主イエス・キリストの身代わりの死に感謝して、はじめて本当の救いの道が開かれるということなのです。

 

 きらびやかなクリスマスツリーや、トナカイが引くサンタクロースがクリスマスの主役になったとしても、クリスマスの本当の主役が誰なのかを伝え続けましょう。祝い続けましょう。本当の救いを必要としている人々のために。