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1/8 礼拝メッセージ「悲しみの祈り、決意の祈り」

 イエス様一行は、最後の晩餐をとられたエルサレム市内から、オリーブ山にあるゲッセマネ(油絞りの意)で祈りの時を持たれました。ここで、主はペトロ、ヤコブ、ヨハネの3人だけを近くに置き、他の弟子たちとは少し離れて祈られましたが、その祈りは衝撃的なものでした。なぜなら、悲しみ悶えながらの祈りだったからです。「死ぬばかりに悲しい」「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願い通りではなく御心のままに」。更に「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように」と。

 この祈りをある人はきっと不思議に思うでしょう。主イエス様は十字架にかかって人々の罪を贖うためにこの世に来られたのだから、このように悲しむはずがないと。また、イエス・キリストは神ではないと主張する人もいます。

 

 イエス様は、人の罪の重さ、弟子たちが眠ってしまっているという孤独、別れを悲しまれた。しかし、イエス様は悲しみの感情を祈り、つまり父なる神との対話の中で、整理されました。イエス様の祈りの言葉には、そんな心の軌跡があるように思うのです。それは悲しみから決意へと変わる祈りでした。そしてそれは独り子を十字架にかけずとも、その力で人を救いうる父なる神様も同じだったと思うのです。主イエス様との対話は、主なる神様の決意でもあったのです。

 

 最後の主の言葉「…時が近づいた。…立て、行こう。」という言葉は、今を生きる私たちへの言葉のようにも思います。私たちはウクライナの人々の苦しみを同じように分かち合うことは到底できませんが、キリスト者として財布の小銭が少しなくなるぐらいのことなら十分分かち合えるのです。「立て、行こう」という主の言葉に従って。