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2/12 礼拝メッセージ「イスカリオテのユダは一体…」

 イスカリオテのユダの死について言及しているのは、福音書の中では唯一マタイだけです。ユダは、奴隷一人分の値段である銀貨30枚で主を裏切りました。しかしそれだけの額のために主を売り渡したのか?主に有罪の判決が下ったことを知って今更後悔する必要があったのか?また望み通りお金を手に入れてなぜすぐさま後悔したのか?… 何がユダの心に起こったのか、調べ、考えても得心する答えにたどり着けません。しかし、一つ簡単な答えはあるのです。それは、弱いユダの心に悪魔が入り、心を乗っ取られ、主を売り渡したのだ。悪魔が離れて、事の重大さにはっと気が付き、銀貨30枚を神殿に投げ返し、自らは責任を取って自殺したのだ、という説明です。だから、悪魔に心を奪われぬよう、いつも、主に結ばれて生活しなければならないという教えです。

 確かに、その通りなのです。しかし、私の心はその結論に得心できないでいます。主のなされた不思議な業、深い教えを間近で見聞きしてきた者なら…と。

 

 しかし、たとえ、悪魔に心を乗っ取られたのだとしても、ユダは生まれる前からこの大罪を働くように定められていたとは、考えたくないのです。そのような予定論的考えは、私たちを神のロボットとしてしまうからです。そして、私たちは誰も、ユダを断罪できるほど、私たちの信仰は立派なものではありません。ユダが死んだ理由、それは究極の孤独と絶望でした。自らの存在に絶望したのです。彼は間違った選択をしました。主イエスを捨て、弟子たちを捨てたのではなく、自らを捨ててしまったのです。ユダの本当の不幸は、もしかしたら復活の主にごめんなさいという機会がなかったことなのかもしれません。私たちも様々な試練や誘惑にあいながら、日々小さな絶望を経験します。それでも生きていれば、主なる神様から希望が与えられるのです。立ち直れるのです。それが毎週の礼拝であり、祈りです。