序
みなさん、おはようございます。ケニアの障がい児とそのご家族と共に歩むミニストリー「シロアムの園」代表、公文和子と申します。渋沢教会の皆さんには、シロアムの園開設の時から大変お世話になっておりますが、今回はコロナ禍にも関わらず直接お会いしてお話ができることを、大変嬉しく思います。
今日は、「奨励」というよりは「証」としてお話を聞いていただければと思います。
1.歴代誌とヤベツ
さて、今日の聖書ですが、歴代誌というのは人の名前がずらずらと出てきて、結構退屈な書です。しかし、その中にヤベツという人がひょっこりと、たったの2節にだけ現れます。そして「どうかわたしを祝福して、私の領土を広げ、御手が私と共にあって、災いから私を守り、苦しみを遠ざけてください」と祈るのです。「わたしを祝福して領土を広げてください」と祈るなんて、なんだかとても自己中心的で欲張りな感じがします。特にクリスチャンは謙虚であるべき、与えられたものに満足するべき、と思いますから、本当にこんな祈りが許されるのだろうか、とも思ってしまいます。しかし聖書は「神はこの求めを聞き入れられた」と語っているのです。
2.私について
私はクリスチャン家庭に育ちました。この仕事をするようになってから幼少期を振り返って、自分の中に色々な葛藤があったことを思います。三人姉妹の真ん中で、姉は勉強も運動もでき、いわゆる「いい子」でしたし、妹は優しくかわいらしく「天使のような子」で、その間に挟まれた私は非常に変わった子でした。協調性がなく、注意欠損、衝動的で、親もとても苦労していたと思います。私は家庭内でそのことを否定されたり、比較されていた記憶はあまりありませんから、きっと両親はこのような私を神様からのお預かりものとしていつくしんで育ててくれたのだと思いますし、自分の中でもこんな自分でしょうがないと割り切り、周りから見ればやりたいことを突き進んでいるように見えるかもしれません。しかし、いつも自分と人を比較して、とっても自信がない子どもでした。そんな私も高校生の時にイエス様に従う決意をしてクリスチャンになりましたが、それでもずっと自信がありませんでした。
3.アフリカでの出会い
医者になって、20年前にケニアにわたり、共に生きるべき隣人は一体だれであるのかを探し求めて、焦点が定まらない中で大変苦しい旅を続けてきましたが、ケニアに来て10年近く経って、イエス様ご自身がケニアの障がいのある子どもたちの中に現れて、出会ってくださいました。この子はクライド君と言いますが、大変な人生の中で、本当に素晴らしい笑顔を私に見せてくれて、その笑顔の中に「私の友になってください」と語りかけるイエス様に出会うことができたのです。そうして始まったのが「シロアムの園」です。シロアムの園は障がい児とそのご家族に包括的なケアを提供する通所施設で、障がいのある人もない人もが完全な社会の一員として自分の可能性を活かし、神様の愛を受け、分かち合う存在として共に生きる社会を目指しています。
2015年にこの新事業を始めましたが、その時は、自分の「領土」は私自身の持っている能力、これまでの経験や資格、自分の性格、それから神様に仕えるという熱意によって決まると思っていました。私の持っているスキルは医者として働くことで、できる範囲でやっていこう、と思っていました。しかし、実際に事業を始めると、資金集めや経営など、これまでやったこともない、やりたくもないと思っていたことばかりで、それよりもはるかに大きな力が必要でした。それにシロアムの園に通ってくる子どもたちの問題の中で医者が解決できることはとても限られています。
例えば、今日はジョセフ君という男の子のお話をします。ジョセフ君は今12歳で、二分脊椎という生まれつきの障害を持って生まれました。腰から下は感覚が全くなく、動かすこともできませんから歩くこともできません。感じることができないので、やけどしたり、傷をつくったりをくりかえしています。排便排尿もコントロールできませんから、一生おむつを付けて生きていかなければなりません。また頭に水がたまるので、脳とお腹の間にチューブが入っていて、この年末はそれが問題を起こして、生死にかかわる状況でしたが、幸い一命をとりとめました。頭の形もみんなと違いますから、呪われているとみられてしまうこともあります。生まれた時にお医者さんには数か月くらいしか生きられないだろうと言われたそうですが、治療を受けることができて今まで色々ありながらも元気に生きてきました。ジョセフ君のお母さんはジョセフ君に障害があることに堪えられなくて、家を出てしまい、その後亡くなってしまいました。そんな苦労でお父さんも精神的に病んでしまい、仕事をすることができません。それでおばあちゃんが一人でジョセフ君と妹のアリスちゃんを育ててきました。おばあちゃんはジョセフ君とアリスちゃんの世話だけでなく、生活費も稼がなければなりませんので、経済的にもとても苦しくで、一日三回の食事を確保するだけでも大変です。
ジョセフ君は、学校にも行きたい、友達と遊びたいと思っていますが、近所にある幼稚園にしか通うことができません。理由は、歩けないので1キロ離れた公立小学校にはいかれない、ガタぼこ道なので、車いすも使えないからです。しかも、その公立小学校の特別支援級では、おむつを付けている子、歩けない子は受け入れられないというのです。もちろん私立学校に通うだけのお金もありません。ですから、おばあちゃんが40㎏のジョセフ君をおんぶできる範囲でしか動けず、将来パイロットになりたい、という夢もありますが、学校すら行くことができないのです。そのようなジョセフ君に私が医者としてできることは本当に限られています。彼には、障害を持っていても愛される社会や寄り添って歩んでくれる家族や仲間が必要ですし、医療や教育が必要です。車いすで動きまわれるインフラが必要ですし、家族が経済的に安定して、今日の食べ物や教育費など基本的ニーズが満たされなければなりません。
4.私を祝福してくださいという祈り
それはとても不可能なことに思いますが、それでも私は神様に「私を祝福して、領土を広げてください」とお祈りします。それはジョセフ君や他の子たちに笑顔で生きてほしいと思いますし、それが神様の御心だと信じるからです。そのように祈る時に、素晴らしいスタッフや仲間が与えられて、私のできないことをやってくれたり、お金が集まって、新しい建物を建てて、ジョセフ君がシロアムの園でもっと学ぶことができるようになって、領土がどんどん広がっていきました。
自分が「領土を広げてください」「お金をください」と祈るとは思ってもいませんでしたし、そんなことを祈っていいとも思っていませんでした。
しかし、その祈りが必要になり、そう祈らざるを得なくなった時に、感じたことがあります。そう祈れない時には、神様の祝福を自分の知恵の範囲で考えていたり、神様がくださろうとしている領土を自分の中で制限をしていたり、そもそもその祈りを必要とするように神様のために十分に生きていないのかもしれないと。これは何もアフリカで障がいのある子どもたちと生きるというような「非日常」のことだけではなく、家庭内での家族との関わりであったり、仕事であったり、教会での奉仕でも同じことが言えると思います。
聖書は一貫して、旧約聖書でも新約聖書でも、「神様、イエス様に求めなさい」と教えています。
詩編50:15
それから私を呼ぶがよい。苦難の日、私はお前を救おう。そのことによってお前は私の栄光を輝かすであろう:苦しい時に求めることをするが、それが「神様の栄光を輝かす」ことになる。
エレミヤ29:12-14
そのとき、あなたたちが私を呼び、来て私に祈り求めるなら、私は聞く。私を尋ね求めるなら見出し、心を尽くして私を求めるなら私に出会うであろう。
マタイ7:7-8
求めなさい。そうすれば与えられる。探しなさい。そうすれば見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、聞かれる。だれでも、求める者は受け、探すものは見つけ、門とたたく者には開かれる
マタイ 21:22 信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。
もっともっと箇所をあげることができますが、これだけ神様とイエス様は「求めなさい」とおっしゃっているのに、私たちは十分に求めているでしょうか?
私が小さい頃に自信がなかったといいましたが、それは、神様が与えてくださる祝福や領土を信じていなかったからだと思います。私はこんな人間だから、私の能力はこんなもんだから、と考えているのです。人と自分を比較して自分の能力を見て、神様の御業を小さく見積もっていたのです。でも、そのように考えることは、それ以上のものを与えてくださろうとしている神様の能力を制限して考えてしまっていることになるのではないでしょうか。
神様は私たちが持っているもの以上のものをくださろうと計画してくださっていますし、それを使ってもっと神様に仕えてほしいと思っていらっしゃいます。
その祝福や領土を受け取ることができる条件はなんでしょうか。
ヤコブ4:3
願い求めても与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです。
正しい動機とはなんでしょうか?私たちの生きる目的が神様を愛し、神様に仕え、神様の栄光のために生きるのであれば、何か特別な生き方でなくてもたくさんの祝福と大きな領土を受けることができるのです。もう一つは「私を祝福し、私の領土を広げてください」と祈り求めることです。神様は私たちが神様に求めることを喜ばれる方です。
シロアムの園は新しい施設に移転し、皆様のご協力を通して、神様がたくさんの祝福を与えてくださり、領土を広げてくださいました。この新しい施設はバリアフリーですから、ジョセフ君が自由に動き回り、私の部屋にも自分で車いすを操作しておしゃべりにきたりします。先生に「物をとってきて」と頼まれて、何か人のためにすることもできるし、友達のところにも自分の意思で行くことができます。けれども、新しい施設には入園希望者が多く、130人以上の子どもたちが待機しているので、ジョセフ君を含め子どもたちは、最大週三日の通園日しかあげることができていませんので、ジョセフ君も週4日は家で過ごしています。
私が次に願うことは、障害のあるジョセフ君や他の子たち、そしてそのご家族が、置かれている場所で自信をもって生き、彼ら自身が「私を祝福して、領土を広げてください」と大胆にお祈りできるようになることです。
ジョセフ君がこの祈りをできるようになるためには、長い道のりであると思います。何しろ、母親に捨てられ、学校にもいけず、差別もされ、大変なことばかり、そんな彼が神様のしてくださることに期待して生きていくことができるようになるためには、イエス様の自分への愛を知ることから始まります。そして、基本的な人権が守られ、社会の中にこのような彼の居場所があり、彼が神様からいただいている賜物を認識し、感謝し、更に期待して生きていくという長い道のりです。
しかし、ヤベツの人生も困難の中に始まっています。産みの苦しみがひどかったということをお母さんは名前に苦しみを背負わせたくらいですから、ヤベツの人生も順風満帆であったわけではありません。それでも、このような大胆な祈りをし、祈りがきかれるという歩みをした人です。ですから、きっとジョセフ君も自信をもって神様にゆだね、期待して生きていくことができると思うのです。
ここにいらっしゃる皆さんのこれからの歩みにおいても、若くても年老いても、仕事をしていても、家庭を守っていても、障害があってもなくても、裕福でも貧乏でも、家族や友達がたくさんいても、一人で生きているように思える人も、「私を祝福して、領土を広げてください」とお祈りできるような人生を送ることができるよう、心から祈ります。