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3/5 礼拝メッセージ「二人のイエス」

 ユダヤ総督ポンテオ・ピラトは死刑にあたるような罪を、主イエス様に見出すことができませんでした。しかし彼は、この地では最高権力者でしたが、ユダヤ人たちがローマ皇帝に直訴すれば、「統治能力に問題あり」とローマ皇帝からの評価は下がることは目に見えて明らかでしたし、罰せられて、ローマに戻ることが命じられるとしたら、ローマでの生活がどんなに良いものであっても、それは彼のプライドが許しませんでした。ポンテオ・ピラトはこれまでもしてきた方法で、イエス様を解放しようとしました。それが、祭りの度ごとに、囚人を一人赦すという方法でした。ピラトは、妻からの「関わらないでほしい」という言葉を心に留めながら、民衆の前で二人のイエスのどちらを赦してほしいか尋ねました。聖書にはもう一人のイエスについて「バラバ・イエスという評判の囚人」と記されています。たぶん、反ローマの暴動を指導した人物だったのでしょう。ポンテオ・ピラトにしてみれば赦しがたい人物でしたが、名前が同じだったことから、彼を選んだのかもしれません。しかし、ユダヤ当局側の人々によって誘導された民衆は、主イエスの赦しを叫ぶのではなく、バラバ・イエスの助命を叫んだのです。

 

 暴動が起こりそうな状況の中、ピラトは民衆の声に負けました。彼は、「この人の血について、私には責任がない」と手を洗って見せました。この「私には責任がない」という言葉は、判決を下した者としては全く無責任な態度であり、この事こそ、彼の罪であり、そして私たち全人類の罪でもあります。

 

 最後に、赦されたバラバについて聖書は何も語りません。『バラバ』という古い映画では、多くのキリスト者との出会いを通して最後には主イエス様を信じ、十字架にかかって亡くなります。このように彼が生きたかどうかは分かりませんが、キリストに命を救われたものは、確かに変えられると思うのです。