ローマの兵たちは鞭打たれ、血まみれになっている主イエス様の周りに集まり、イエス様をさらに辱めました。彼らがはぎ取ろうとしたのは、服だけでなく人間の尊厳でした。更に言えば、征服側のローマの兵隊ですから、ユダヤ人に対して差別的な感情もあったでしょう。そのユダヤ人の救世主が血まみれになった哀れな姿で目の前にいる。彼らは上官に命令される存在でしたが、囚人に対しては自分たちが絶対的な権力者になれたのです。
彼らは、子どもがお人形ごっこで人形に服を着せかえるのと同じように、主イエス様の服をはぎ取り、代わりに自分たちが身につけていた赤いマントを着せ、茨で編んだ冠をかぶせ、葦の棒を持たせて、「ユダヤ人の王、万歳」と王様ごっこをしたのです。それは権力にこび、無力なものには情け容赦なく振る舞う者の憂さ晴らしでもありました。それに飽きると、彼らは唾を吐きかけ、頭をたたき続け、散々辱めて十字架が立つゴルゴタの丘にひいていったのでした。
このようなひどい仕打ちをされても、主は一言も発していません。それが、人間の醜さであり、弱さであることを知っていたからです。主はきっとこの時も十字架にかかった時に語られた「何をしているのかわからないのです」というとりなしの祈りをされていたと思うのです。主は人間の罪を赦すためにこの世に来られました。その象徴がこの兵士たちのあざけりであり、十字架なのです。この兵隊たちは、主ではない違うものにより頼もうとしてしまう私たちの姿です。
私たちは主イエス様が誕生した時に東の国の学者が宝物をもって礼拝したことを聖書から知っています。主イエス様がその最初と最後に異邦人によって拝まれたことも、意味あることでしょう。主は最初から最後まで、人類の王だったのです。