· 

3/19 礼拝メッセージ「十字架が見たイエス」

 ゴルゴタに着いた主イエス様に兵士たちは手足に太いくぎを打ち、その頭上には「ユダヤ人の王」という札をつけました。祭司長たちの「ユダヤ人の王と自称したと書いて下さい」という訴えはピラトによって退けられたとヨハネ福音書は記しています。この札によって、ローマ帝国が公式に主イエス様を「ユダヤの王」であると認めたことになります。そして、詩編22編にあったように主が着ていたものは、兵たちによってくじで分けられました。下着さえもはぎとられて、主は十字架につけられました。

 

 その時、二人の強盗が主イエス様と一緒に十字架につけらました。マタイやマルコ福音書には主をののしったとしか記されていませんが、ルカによる福音書23章には、一人の強盗が「御国においでになる時は、わたしを思い出してください」と主に願ったと記されています。キリスト教信仰は、行いではなく信仰によって義とされると言いますが、彼はその最たる人でしょう。

主をののしる人々は口々に「神の子なら、十字架から降りて見せろ」と言いました。私もイエス様が、十字架から降りて見せれば、不信仰な人々も驚いて悔い改めたのではないか、と考えたりもします。しかし、その方法では人類の罪の贖いにはならないのです。十字架の上で死に、墓に葬られ、3日目に復活されたからこそ、主イエス様が人を超えた神の子であると弟子たちは理解し、主イエス・キリストを宣べ伝えることができたのです。キリスト教の信仰の本質は、処女降誕や、数々の奇跡、良い教えでもありません。主が十字架にかかり、私たちの罪を肩代わりされ、そして復活されたことを信じることにあります。私たちもあの「思い出してください」と語った強盗のように、主の十字架の赦しを改めて信じましょう。