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3/26 礼拝メッセージ「イエスの死、希望の始まり」

 主イエス・キリストが十字架に掛り、今まさに、死が彼に勝利しようとした時、信じられないような出来事が起こったと、マタイ福音書は私たちに告げています。しかし他の福音書は、それらの出来事をマタイほど書いておらず、ヨハネに至っては、不思議な出来事が起こったことすら書いていないのです。

 

 4つの福音書が共通して語る、主イエス・キリストの死の意味、それは、「本当にこの人は神の子だった」ということなのです。主が死に勝利し、3日目に甦ったという出来事がなければ、イエスの死に落胆し、祭司・律法学者たちを恐れてちりぢりばらばらなっていた弟子たちに復活の希望が起こるはずもなく、殉教を覚悟してなされた伝道などできるはずがないのです。主の死と復活が、彼らに神の子イエスという確信を与えたのです。福音書はこの事実を元に記されました。マタイによる福音書は、イエス様の十字架の死を旧約の預言の成就として、聖なる人々が甦ると黙示録が描く来るべき最後の時の出来事を記しているのだと思うのです。

 

 「エリ、エリ、レマ、サバクタニ(我が神、我が神、なぜ私をお見捨てになったのですか)」との叫びもこのマタイ福音書が示そうとした「イエスは旧約の預言が示した神の子、メシアである」という視点で見れば1ミリもぶれていません。逆にこの言葉は、神様の導きが見えなくなった時「我が神、我が神、なぜ私を見捨てられるのか」という言葉をイエス様もつぶやいた、自分もつぶやいていいんだという慰めになります。神様は完全な信仰など求めていません。逆に神様が私たちのもとに来てくださった、そのことに感謝し、弱い私たちを守り導いて下さいと祈れれば、立派な信仰者なのです。