ゼファニヤ書は、紀元前7世紀の南ユダ王国の王であるヨシヤ王の治世中に預言者ゼファニヤによって記された、南ユダ王国の民に対して神の裁きと救いのメッセージです。1章では、エルサレムの人々に対しての警告が、2章では、近隣諸国の滅亡についても預言されています。そして3章では、苦しめられ、卑しめられていた人々が神の裁きを免れ、祝福されるというのが、ゼファニヤ書の内容です。なぜこのような神の裁きがあるのかと言えば、聖書は一貫して創造主なる神を忘れ、軽んじたからだと語ります。このゼファニヤ書で言えば、「主に背を向け、主を尋ねず、主を求めようとしない者」(1:6)であり、「彼らの傲慢のゆえ」(2:10)なのです。聖書には、主の言葉を軽んじたために、災いを受けた人々が多く登場します。アダムとエバに始まり、ソドムとゴモラの人々、イスラエルの歴代の王や人々などです。聖書は、神を忘れず謙虚に生きること、悪魔の誘惑に乗らず悪を働かないことを、彼らの生きざまから学ぶように記された人類の記録と言っても過言ではありません。しかし、神が見ていることを知らない人々は、やすやすと自らの欲望のために不正を働いてしまう。他の人々の幸せを壊してしまうのです。その手段が嘘、偽りであり、力なのです。子どもの生活から国同士の争いに至るまで自己中心の罪があるのです。
だからこそ主なる神様は、私たちの罪を赦し、救うために御子イエス・キリストを遣わしてくださいました。その理由は、ヨハネ福音書3:16が記しています。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るためである」。ゼファニヤ書で言えば、17節「お前の主なる神はお前のただ中におられ、…愛によってお前を新たにし」という言葉です。マタイ福音書では「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と、今も共におられるキリストの十字架の愛によって、私たちが罪赦され、そして復活によって、私たちは罪と死の絶望から解放され新たにされているということを語っているのです。私たちは、この愛があるからこそ、この苦難な時代にあって、希望を持ち続けることができるのです。