このヘブライ人への手紙は、諸説ありますが、ユダヤ戦争によってエルサレム神殿がローマ帝国に破壊(70年)された西暦80~90年に書かれたと考えられています。そのような前提で考えると、エルサレム神殿や市街はすでに廃墟となり、大祭司もいないことが1:2の「終わりの時代」の意味であり、地中海沿岸に散らばってユダヤ教の教えを守りながら生活していたユダヤ人に向けて、本当の大祭司はイエス・キリストであるから、希望をもって生活しようと、この手紙(説教)が書かれたと言えるのです。
この1:5~14は、イエス・キリストが神の御子であって、天使ではないことを語っています。当時の人々にとって、天使は神の言葉を代弁する重要な存在でした。ですから天使と御子の違いをまず明らかにする必要がありました。今日の箇所では7つの旧約聖書が引用されています。ギリシャ語で書かれた旧約聖書からの引用のためだいぶ言葉が違いますが、決定的なのは13節の「わたしがあなたの敵を…わたしの右に座っていなさい」という言葉です。天使が神の右に座るということはあり得ません。「神の栄光の反映、神の本質の完全な現れ」である御子だけなのです。このようにこの手紙の著者は、御子イエス・キリストが天使などではなく、礼拝されるべき対象であることを改めて語っています。
ここで「礼拝」について考えたいのです。礼拝は信仰生活の基本であり、特権であり義務です。しかし本当の意味で「神を礼拝している」といえる日が一年53週のうちに何週あるでしょうか。礼拝の礼の字は、昔「禮」と書きました。礼拝の豊かさとは、主なる神様と自分との出会い、語り合いということに尽きるのです。神様と大いに語り合い、そして、神様があなたを愛していることを信仰の友との交わりで実感してください。義務や特権などと堅苦しいことは抜きにして、神様は私を愛してくれている、その喜びをもって主を心から賛美しましょう。それこそが、私たちが目指す礼拝の姿だと思うのです。