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5/21 礼拝メッセージ「イエス・キリストって②」

 2:1以下は、イエス様が、なぜ救いのために人とならねばならなかったかを端的に語っています。讃美歌21 280番「まぶねの中に」の1番の歌詞の中に「貧しき憂い、生くる悩み、つぶさになめし」とありますが、私たち人間と同じになることで、悩み・悲しみ・苦しみを共有するためだったのです。

 

 聖書の中にある「人の子」という表現は、特別な意味を持っています。例えばダニエル書7:13は「人の子」は神から、終わりの日に全ての栄光・権威を受け継ぐ者として描かれています。ヘブライ人への手紙の著者はこのようなことを踏まえて、天使以上の存在でありながら天使たちよりもわずかの間低いものとされた理由を、10節「多くの子らを栄光に導くために完全なものとされた方にふさわしいこと」であり、17,18節「兄弟たちと同じようにならねばならなかったから、試練を受けたからこそ試練を受けた人を助けることができる」と述べているのです。

 

 全能の神様なのにとも思いますが、少なくとも人間側から見れば、自分たちと同じ苦しみ、死を味わったことを知らされたわけですから、神様は私たちの悩み・悲しみ・苦しみを同じように知っておられるということが保障されているのです。「だから、わたしたちは聞いたことにいっそう注意を払わねばならない」(1節)のです。また「これほど大きな救いに対してむとんちゃくでいて、どうして罰を逃れることができましょう」(3節)ということなのです。

ヘブライ人への手紙の著者は、主イエス様こそ、救いの創始者だととらえています。律法からではなく、救いがここから始まると、ヘブライ人への手紙の著者は、私たちに告げているのです。

 

 私たちが、人の言葉ではなく、神様の言葉を聞き、神様の御顔を見ることにもっと注意を向けることができるなら、私たちが目にしたこと、耳にしたことから守られるようになっていくのです。またそこから解放されていくのです。救いの創始者イエス様にしっかりとつながっていましょう。