ヘブライ人への手紙3章の後半は詩編95編7-11節の言葉が引用されています。これは民数記14:26-35に基づいた詩です。ユダヤ人にとって、奴隷であったエジプトからの脱出の出来事は、神様に導かれた出来事でしたが、同時に神の導きに従わなかった歴史でもありました。シナイ山でモーセに十戒が授けられていた時も、人々は、金の子牛の像を作ってこれを神としたため、モーセは授けられた石板を砕き、偶像礼拝をしていたものは殺され(出エジ32章)、約束の地カナンに偵察に行った際も、主の約束の言葉を軽んじたために、40年荒れ野をさまようことになり、20歳以上の者は、ヨシュアとカレブを除いて約束の地に入ることができなくなってしまった。ローマ帝国に支配された今、神は御子イエス様をメシア、救い主として送ってくださいましたが、これも十字架につけて殺してしまった。しかし、御子は死から甦られ、神と人との間に立つ大祭司として神の右の座におられる、というのがこのヘブライ人への手紙の著者の信仰なのです。この手紙が書かれた当時、まだユダヤ教の教えの枠組みを乗り越えられずにいた人々や、迫害を恐れて信仰を捨てる、もしくは信仰を公にしない人々がいました。そのような人々のためにヘブライ人への手紙の著者は、神の安息にあずかれなかった人々のようにならないために「『今日』という日のうちに、日々励まし合いなさい」と書き送ったのです。
この「『今日』という日のうちに」という言葉は、印象的な言葉です。日本の格言にも「善は急げ」とか「一期一会」という言葉がありますが、できるだけ早く手を差し伸べなさい、後回しにしてはならないということでしょう。神の声を聖書から聞き、神の愛に触れ、主なる神様を信じた最初の思いを私たちも大切にしましょう。