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6/25 礼拝メッセージ「カモノハシ・宇宙・イエス様」

 私は15節「罪は犯されなかったが」というみ言葉がずっと私の信仰に一つの疑問を投げかけていました。「主イエス様が人として生きながら、罪を犯さなかったということが、果たして可能だったのだろうか?」ということです。伝統的・正統なキリスト教信仰は、イエス・キリストは「まことの人であり、まことの神」と告白します。病気にもかかり、転べば血が出るような正真正銘の人間です。そのように人となられたのは、人の悩み・苦しみ・悲しみを共有するためでした。フィリピの信徒への手紙2:6以下やヨハネの手紙Ⅰ4:9のように新約聖書は神が、人を愛する愛ゆえに御子をこの世界へ送ってくださったと語ります。また、復活によって弟子たちは、主が神の御子にして神ご自身であることを知りました。だからこそ、主イエス様を「まことの人にしてまことの神」と私たちキリスト者は告白しているのです。しかしです、まことの人であるならと思わずにはいられないのです。ナザレの村で他の子どもたちと同じように遊んだなら、聖書に書いていなくても、けんかもしたでしょうし、病気にもなったでしょう。それが生身の人間であり、人そのものがそもそも罪と切り離して考えられない存在だと思うのです。平和を得るために戦わなければならないような矛盾した世界にあって「罪を犯さずして人として生きうるのか」が、私のずっと抱えてきた疑問だったのです。

 

 しかし、分かったことがありました。それは、「事実は小説よりも奇なり」ということです。世界には不思議なことが多くあります。その例がカモノハシや宇宙です。鳥のようなくちばしを持ち、卵で子供を産み、母乳で子育てをするカモノハシ。今も膨張している宇宙。このように私たちの理解を超えて神様の創造の事実があるのです。主イエス様が、神でありながら、人となられたということも、この世界の誕生と終わりと同じように、途方もなく不思議なことなのでしょう。聖書に記された天国も、自由に想像してよいのだと思います。主なる神様が私たちに約束してくださっているということを信じ続けることができるなら。