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7/2 礼拝メッセージ「苦しむ神」

 1-2節、大祭司はすべて人間の中から選ばれるとは、大祭司のみが、神殿の中で一番重要な至聖所と呼ばれる場所に入ることができたのです。つまり人を代表して神の前に立つことができたのが、大祭司なのです。そして、自分自身も人としての弱さを知っているが故に思いやることができると記されています。

 

 しかし、ここで問題になるのは、3節の「自分自身のためにも」ということです。アロンの家系から始まる大祭司は、人間であり、人々の罪の身代わりになることができません。ヘブライ人への手紙の著者は、旧約聖書に記されている謎の大祭司メルキゼデクに注目したのです。メルキゼデクは創世記14章に出てくる人物ですが、名前の意味はヘブライ語で「最高神によって正義が与えられた者」というものです。アブラハムがエジプト軍と戦い、勝利して戻った時、サレムの王兼祭司として、パンとワインをもってアブラハムを出迎え、祝福し、メルキゼデクに対してアブラハムは捧げものをしました。これらが意味するところは、メルキゼデクが神聖な王権と祭司権を持っていた特別な存在であったこと、ユダヤ人の偉大な祖先であるアブラハムよりも高い位であったということです。ヘブライ人への手紙の著者は、アロンの家系ではない謎の大祭司に、主イエス・キリストを見たのです。これが主イエス様の真の役割なのだと、この手紙の読者に書き送ったのです。

 

 そして、その主イエス様は、7―9節「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、…従順を学ばれました。そして完全なものとなられた」のです。神の御子イエス・キリストがまだその存在自体神ご自身であるという理解に至っていない当時の人々に説明するためには、このような書き方によって、人々の揺らぐ信仰を励ましたのです。そして、何より大切なことは、主は私たちのために、とりなしの祈りをささげられていた(ヨハネ福音書17章)のです。この祈りは大祭司の祈りと呼ばれています。主は私たちのために涙の祈りをささげられたのです。このようなお方だからこそ、私たちはこの方以外に信じることができないのです。