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7/9 礼拝メッセージ「人生の難題を解くには」

 今日の箇所で、ヘブライ人への手紙の著者は読者が「神の言葉」に対して、初歩の所で留まっているので、それ以上の深い話ができないということを嘆いています。初歩の教えは、6:1~2に挙げられていました。これらは、ユダヤ教の教えだったり、儀式を指しています。ユダヤ教とキリスト教というようなはっきりとした宗派の違いがなく、イエス・キリストをメシアと信じることぐらいが、その違いであった当時、ユダヤ教の教えに戻ってしまう人も大勢いたのでしょう。このような手紙や、福音書が書かれた背景は、そのような人々にイエス様の教えや、ユダヤ教との違い、間違った教えを明確にするという目的もありました。この具体的な内容の手掛かりになるのは、イエス様の山上の説教やファリサイ派や律法学者とのやり取りです。主イエス様は、形式的な祈りや、律法を盾とした愛のなさを批判しました。そのような問題は、聖霊降臨を経験した後の弟子たちやパウロの間でも問題となりました。イエス様ははっきりと言われました。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして神である主を愛しなさい。同様に隣人を自分のように愛しなさい。律法全体と預言者はこの2つの掟に基づいている」と。これは、神の国の大原則です。この教えは基本でありながら、様々な複雑な課題に頭を抱える時に、思いもつかなかった答えを導きだしてくれます。

 

 子ども時代、思春期、社会人それぞれ違った悩みがあったと思います。そして、今生きているこの瞬間にも、悩みがある。しかし、もっと本質的な人生の難題というものがあります。それは、自分の生きる意味です。思い描いていたのとは違う方向に歩みだした時、私たちは自分の人生を見失いがちになるのです。軌道修正が自分自身ではなかなかできないで、苦しんでしまうのです。そのような時にこそ、聖書に立ち返るのです。そうやって何度も何度も聖書に立ち返る。祈る。それは信仰者として当たり前のことですが、そのように自分の力ではなく神の力により頼むことを学ぶことが、信仰の成熟につながり、ひいては人生の難題を解く力になるのです。