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8/27 礼拝メッセージ「ほかの福音はない」

 ギリシャ語ですと、「あきれ果てています(サウマゾ)」から始まる文章です。この動詞は「まともでなく、驚く」という意味があり、この箇所以外では使われていません。それくらい厳しい言葉ですから、受け取る方もびっくりしたことでしょう。パウロが伝えた福音とは異なるものを、福音と称してガラテヤ諸教会へ伝えた人たちがいるとパウロは言います。主イエスの「恵みのみ」だけでなく、割礼を含めた行いも必要だと考えるキリスト者たちがいました。つまり彼らは主イエスの「恵みのみ」では不十分で、行いを付け加えなくてはならないと考えました。しかしそれは神様の一方的な愛と恵みから、律法による行いの信仰へと逆戻りすることにほかなりません。救いは主イエス・キリストの「恵みのみ」によるのか、それとも律法に基づく行いも必要なのか、パウロは厳しい言葉を敢えて使って、二者択一を迫りました。この点を曖昧にすれば、主イエス・キリストが十字架にかかってくださり、復活して共におられることの「恵み」による救いが、律法を守ること、割礼さえ受けておれば救われると誤解されるような福音へと変容していく可能性が非常に高くなることを、パウロは充分承知していました。ガラテヤの諸教会の人たちは、すでに「主イエスの福音」を知っていました。主イエスの十字架の死と復活によって救われたと信じていたはずです。私たちには既に、主イエス・キリストの十字架と復活による恵みと救いが与えられています。ガラテヤの諸教会の人たちは主イエスの福音を信じていなかったわけではありません。私たちも主イエス・キリストの十字架と復活を信じて、その恵みに頼る、それだけのことが、不十分ではないかと不安になって、実際は出来ていないのではないでしょうか。本当はこれが最も困難であり、現世における私たちが守るべき砦であり、戦いの場なのかもしれません。主イエス・キリストの福音、私たちにはそれだけで十分なのです。それ以上何もいりません。