9章では幕屋、神殿での礼拝の意味についてユダヤ教の律法と新しい契約との違いを語っています。幕屋には至聖所という場所があり、ここにはモーセに与えられた十戒が記された石板を納めた箱が置かれていました。その至聖所に入ることができたのは年に1度、罪の贖いの儀式をする(出30:10)大祭司だけだったのです。これは律法が定めていたことでしたが、しかし、この年に1度、大祭司しか進み出ることが許されなかった至聖所の在り方こそ、ヘブライ人への手紙の著者が問題としたところだったのです。誰も神の前に近づくことを律法が許していないことこそ、古い契約の問題点だと彼は指摘するのです。事実、主イエス様が十字架にかけられた時、エルサレム神殿の至聖所の入り口の幕が縦に裂けました。(マタイ27:56)これは、主イエス様の死によって神と人との隔てがなくなったことを意味します。ですから、ヘブライ人への手紙の著者は、9:11以下で、主イエス様こそが神との和解の仲介者として、牛や羊などとは比べられないご自身の血という献げものによって、私たちの罪を完全に清められたと語るのです。
だからこそ、私たちは15節「永遠の財産を引き継ぐ」ことができるのです。古い契約は、子孫を天の星のように、海べの砂のように増やし、乳と蜜の流れる約束の地カナンを与えるというものでしたが、新しい契約は、地上的なものではなく、永遠の天の国の喜びなのです。
今世界は、ウクライナ戦争によって混迷の度を増しています。そのことによって今、金の価値が上がっていると聞きました。自国の通貨は、紙くずになる恐れがあり、価値が変わらない金の需要が増えているためです。であるなら、金よりも価値のある天の国の永遠の財産こそ、私たちは真剣に求めるべきだと思うのです。