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11/26 礼拝メッセージ「すべての人との平和を」

 「すべての人との平和を追い求める」「聖なる生活を追い求める」と記されていますが、それはほとんど実現不可能な事柄のように思えます。日本を例にして考えてみただけでも、北方領土、拉致問題、尖閣諸島…と隣国と多くの問題を抱えて解決の糸口は見えません。個人レベルでも意見が平行線をたどったり、事件や事故で心に深い傷を負わされた人であれば、なおのこと許すことのできない人がいるでしょう。会社や学校、親子や兄弟、夫婦でさえ、確執が生まれる場合がある。これらはクリスチャンも例外ではありません。こんな現実の中で、「すべての人との平和」とか「聖なる生活」を追い求めなさいと言われても、「はい、分かりました」と答えられる人は多くないと思うのです。

 

 しかし、敵意は敵意しか生まず、本当の平和は訪れないのです。そのためにも、聖なる生活が重要になってくるのです。エサウは自らの欲望のために、神様からの祝福を放棄し彼の子孫エドム人は、イスラエルと対立することになりました。一人の軽率な行いが大きな禍根となったのです。しかし、これは現代においても真理です。個人の小さな過ちが、家族を巻き込み、社会も毒してしまうのです。それが完全ではない人間の弱さでもあるのですが、だからこそ私たちは誘惑の危険から身を遠ざけていなければならないのです。

 

 モーセが授けられた契約では、近づくことが許されたのはモーセのみでしたが、新しい契約では、主イエスの十字架の血によって私たちは近づくことが許されています。兄カインに殺されたアベルの血は、呪いの血となりましたが、キリストが流された血は、それに勝って赦す愛、和解の血です。

 

 私たちは、様々な試練や困難を通して、悩み苦しみますが、そのことによって私たちの信仰は育つのです。そのことを信じて、アドベントを迎えましょう。