ヨセフは、マリアと同様、その時代の普通に生きていた人でした。ただ違うとすれば、彼は「ダビデの子孫」だったのです。ヨセフは、婚約者のマリアから急に妊娠したと知らされて、悩みました。婚約者でしたが、身に覚えがなかったからです。当時不倫は石打の刑にあうほどの重い罪でしたが、マリアを愛していたヨセフは公にすることなく、密かに離縁しようとしました。しかし、天使が夢に現れて、「ダビデの子ヨセフ、その子は約束された神の子だから、おそれず妻に迎えよ」と聞かされるのです。最初は「まさか」とおもったと思うのですが、ヨセフは純粋に信じたのです。最初のイエス・キリストの信仰者、最初に希望を与えられた人物、それがヨセフです。次の朝、起きた時にはもう彼の心には迷いはなく、マリアを妻にし、その後、人口調査のために生まれ故郷のベツレヘムへ旅し、イエス様が生まれた後もヘロデの手を逃れるために家族を守ってエジプトへ旅しました。彼がどのような思いであったか、聖書には一言も彼の言葉は出てきません。しかし、この無言の中に、彼の誠実な信仰とひととなりが見えるように思うのです。主イエス・キリストはこの父から、多くの正しい事を学んだはずです。確かに、ヨセフは救い主であるキリストの父ではありませんでした。しかし、間違いなく、人としてのイエスの父だったのです。マリアだけが選ばれたのではなく、彼もまた、神が選び給うたイエスの父だったのです。
イエス・キリストの誕生はインマヌエル「神は我々と共におられる」という神様の約束そのものです。神様が私たちと共にいる。ウクライナやガザで何もかも失った人と共に、コロナ禍が去ってもなお、面会や外出が制限されている人と共に、将来に希望を持てない若者にも、病気で苦しむ人にも、トランスジェンダーの人にも、神様は共にいてくださっている。私たちはその喜びを伝える役割が与えられています。そしてまさに私たちがそのような人たちの心の傍らにいることが、主の愛の証しとなるのです。私たちもまた、ヨセフが決意したように、主の愛に生きる決意を新たにしたいと思うのです。