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2/25 礼拝メッセージ「神の試練と悪魔の誘惑」

 ヤコブの手紙1:12-18は、私たちがしばしば直面する「試練」と「誘惑」について考えさせられる箇所です。一般的に言えば望まないような苦しい外的なことが試練で、心のうちにある欲望をくすぐられることが誘惑であるとされます。又、試練は神からのものであり、私たちを成長させるためのもの、誘惑は悪魔からの罠であり、私たちを神様から遠ざけようとするものであると言えますが、ヤコブが言うようなはっきりとした区別ができるとは思えないのです。天災や、不慮の事故など苦しみの中にある人に、「それは神様からの試練だから、耐え忍びなさい」とか「悪魔の誘惑にまけるな」とこのヤコブ書が言うように簡単に言うことはできないのです。

 

 私にも人生の色々な場面で、試練とその逃れの道のように見える誘惑が数多くありました。これらが、神様からのものであるのか、悪魔からくるのか、判別することは容易なことではありません。

 

 今日の聖書箇所には原則的な神様の導きか悪魔の誘惑かのガイドラインが記されています。ヤコブ書の著者は、誘惑が私たちを罪に引きずるのではなく、自分自身のうちにある欲望によって誘惑の泥沼に陥ると書かれています。そしてその欲望が罪をうみ、熟すと死を生むと伝えるのです。強い誘惑それ自身は、悪魔の力が強いのではなく、私たちのうちにある欲望が強いということです。 

 しかしキリストから人々を遠ざけようとする悪魔の誘惑も、その苦難を忍耐することによって、それは悪魔の誘惑ではなく、神様が与えてくださった試練となるのです。「苦難は忍耐を、忍耐は練達に、練達は希望を生む」(ロマ5:3)。

 

 私たちの信仰生活も、今は辛い試練、甘い誘惑であっても、主にあって耐え忍ぶなら、それが私たちの信仰の確信を深め、鍛えるためのものとなるのです。誘惑や試練も信仰の栄養源、希望の源となりうるのです。

「なぜこのようなことを神様はなされるのか」ではなく「なにをこの事柄から私たちに語られようとしておられるのか」を問うことを忘れないようにしましょう。私たちは神様の目から見れば、宝であり、貴重な初穂です。