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3/10 礼拝メッセージ「キリストを信じたなら」

 今日の聖書箇所は、裕福な人と貧しい人、2人の人が礼拝にやってきたというたとえで始まっています。裕福そうな人には特別に目を留めて「こちらへどうぞ」とよい席を案内し、汚らしい身なりの人には、「そこに立ってるか座っていろ」というのです。当時はあまりにも当たり前すぎて、差別意識すら感じていなかったのかも知れません。しかし私たちの中にも他人事にはできない「差別」があるのではないでしょうか。アメリカにおいて、公民権運動によって人種差別が廃止されたのはわずか75年前の出来事です。そして今なお経済至上の社会の仕組みの中で、格差が存在します。

 

 教会にも、差別があります。みすぼらしい服装、においのする体、自分たちとは異質な人に対する警戒感。あなたはそのような人の隣に座れるでしょうか?たぶんこのような感覚は、身分制度とは関係なく、私たちの本能レベルで感じてしまうことなのだと思います。しかしその意識が、無意識の差別を生み出すことになるのです。

「神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、ご自身を愛する者に約束された国を受け継ぐ者となさったではありませんか。だがあなた方は、貧しい人を辱めた…。(ヤコブ2:5-6)」神は常に貧しい人の側に立たれるお方です。

 

 富の決定的な欠点は、そこに自己絶対化を生み、神によって生かされているという謙虚さを失わせる点にあります。人は本来神の前にあって平等ですが、悪魔が支配するこの世には罪の原理が存在し、人は欲望を満たすために争い、優劣をつけ合うことで存在を確かめ合っています。そのような不平等極まりない世界だからこそ、主なる神様は、私たちに悲しみも嘆きも労苦もない新しい天と地をくださると約束してくださったのです。人を分け隔てしてしまう心を正直に告白し、主に赦していただきましょう。そして、どんな人をも自分の隣人として愛する心を主に願いましょう。そして、実際に行いで表すことができるようになりましょう。キリストを信じたものとして。