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3/17 礼拝メッセージ「信仰の若返り」

 貧富の差によって分け隔てすることを問題としたヤコブの手紙の著者は、次に信仰における行いの大切さを語ります。使徒パウロの語る「信仰による義」は、律法を守っても、それは救いの条件にはならず、主イエス・キリストを信じることによってのみ私たちは救われるということでしたが、誤解して日常生活を放棄して主の再臨を待ち望んだり、肉体と精神を別々に考え、性的な不品行に陥る人々まで現れました。ヤコブ書もパウロの信仰による義を批判したのではなく、「愛する」という主の掟を分かっていて行わない人に対して17節「行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。」と厳しい言葉を語るのです。そして、アブラハムもラハブも行いによって義とされたと語るのです。

 

 ヤコブ書は、イエス様の十字架の贖いについて全く触れていない、だから聖書における書簡として劣っている、という評価がありますが、自分の信仰がいかに頭でっかちで、自分本位のものであるか、反省させられます。ヤコブ書の著者はまさに、私に対して憤っているのです。現代の教会が、課題を抱える社会に対して、人々に対してどれほどの愛情を持っているか。「堕落している」「汚れている」と断罪し、できれば関わりたくないと思っていないでしょうか。私はあのよいサマリア人のたとえのファリサイ人や祭司のように「自分とは関係のないことだ」と思う自分がいることを告白せざるをえません。しかし、だからこそヤコブ書は新約聖書に入らなければならない書簡だったのです。26節に再度強調されているように「行いを伴わない信仰は死んだもの」と、私たちに突きつけてくるのです。ウィリアム・バークレーという信仰者は「信仰がキリスト教的行動を起こさないならば、キリスト教信仰ではない」「人は、行いによって救われるのではない。行いをするために救われている」と語るのです。

 

 TVを見ると健康や美容に関するCMが多く放送されています。人々は健康でいたい、若々しくいたいと思うのです。これほど私たちは外側の若々しさに気を遣うのに、心の、信仰の若さ、みずみずしさにどれほど気を遣っているでしょうか。信仰の「ハリ、ツヤ」を取り戻すために、挑戦する気持ちが大切なのです。