過ぎ越しの祭りを祝うためエルサレムに来たイエス様を、人々は民族を救う
救世主(メシア)として迎え、棕櫚(なつめやし)の枝葉を打ち振り、着てい
た上着をその道に敷いて迎えました。そしてエルサレム神殿に入られた主は、神
殿で商売する人々を「祈りの家を強盗の巣にした」と追い出しました。その言
葉は、商人たちだけでなく、それを許していた祭司や、ファリサイ派の人々に
向けられていたのです。しかし、神聖なエルサレム神殿でのこのような振
る舞いに、ファリサイ派、律法学者、祭司らの怒りは極限に達しました。「イエ
スこそ、律法を踏みにじり、我々の神殿を汚している。また反ローマの暴動な
どが起きれば、責任を問われるかもしれない。このまま生かしておいてはいけ
ない」と。そうして主イエスを殺そうとする企みは、祭りの間は裁判を行わな
いという不文律があったにもかかわらず、実行に移されるのです。
近頃「不適切にもほどがある」というTVドラマが話題になっています。昭
和の時代からタイムスリップした主人公が、令和の時代とのギャップに戸惑う
というものですが、たった 4,50 年で、ここまで日本の常識が変わったというこ
とを風刺している面もあり、「常識」とか「正しさ」とは何なのかということも
考えさせられるドラマです。私は、この「不適切にもほどがある」という言葉
こそ、聖書の時代の為政者たちと、今の世界の為政者たちに共通するキーワー
ドだと感じました。律法の本質に目を背けた祭司・ファリサイ派・律法学者た
ち。不条理な戦争を続け、領土的野心を持ち続ける世界の為政者たち。日本の
政治家も不適切な事例に枚挙のいとまがありません。まさに「不適切にもほど
がある」と叫びたいほどです。イエス様が、この現代社会の有様をご覧になっ
たら何と言われるでしょうか。いや、イエス様は今も見ておられるのです。
イエス様がエルサレムに近づき都が見えた時、イエス様は都のために泣いたと
41 節に記されていました。「平和への道をわきまえていたなら…」と主はつぶや
かれましたが、今なお平和の道をわきまえない、この世界の姿を見ている主の
目にはやはり涙が浮かんでいるのではないでしょうか。