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3/24 礼拝メッセージ「聖書版 不適切にもほどがある」

 過ぎ越しの祭りを祝うためエルサレムに来たイエス様を、人々は民族を救う

救世主(メシア)として迎え、棕櫚(なつめやし)の枝葉を打ち振り、着てい

た上着をその道に敷いて迎えました。そしてエルサレム神殿に入られた主は、神

殿で商売する人々を「祈りの家を強盗の巣にした」と追い出しました。その言

葉は、商人たちだけでなく、それを許していた祭司や、ファリサイ派の人々に

向けられていたのです。しかし、神聖なエルサレム神殿でのこのような振

る舞いに、ファリサイ派、律法学者、祭司らの怒りは極限に達しました。「イエ

スこそ、律法を踏みにじり、我々の神殿を汚している。また反ローマの暴動な

どが起きれば、責任を問われるかもしれない。このまま生かしておいてはいけ

ない」と。そうして主イエスを殺そうとする企みは、祭りの間は裁判を行わな

いという不文律があったにもかかわらず、実行に移されるのです。

 

 近頃「不適切にもほどがある」というTVドラマが話題になっています。昭

和の時代からタイムスリップした主人公が、令和の時代とのギャップに戸惑う

というものですが、たった 4,50 年で、ここまで日本の常識が変わったというこ

とを風刺している面もあり、「常識」とか「正しさ」とは何なのかということも

考えさせられるドラマです。私は、この「不適切にもほどがある」という言葉

こそ、聖書の時代の為政者たちと、今の世界の為政者たちに共通するキーワー

ドだと感じました。律法の本質に目を背けた祭司・ファリサイ派・律法学者た

ち。不条理な戦争を続け、領土的野心を持ち続ける世界の為政者たち。日本の

政治家も不適切な事例に枚挙のいとまがありません。まさに「不適切にもほど

がある」と叫びたいほどです。イエス様が、この現代社会の有様をご覧になっ

たら何と言われるでしょうか。いや、イエス様は今も見ておられるのです。

 

 イエス様がエルサレムに近づき都が見えた時、イエス様は都のために泣いたと

41 節に記されていました。「平和への道をわきまえていたなら…」と主はつぶや

かれましたが、今なお平和の道をわきまえない、この世界の姿を見ている主の

目にはやはり涙が浮かんでいるのではないでしょうか。