· 

6/2 礼拝メッセージ「あなたの知恵はどこから?」

 私たちの身の回りにはいろいろな知恵があります。知恵という言葉はソフィアというギリシャ語が使われていて、これは上手さとか巧みさを表す言葉です。ですから自らの生活を巧みに生きる、賢く生きるための知恵を否定するものではないのです。しかし、その「賢さ」が問題なのです。17節以降で述べられているように「上からの知恵」というものは、自分の健康や人との競争に勝つためとか、自分本位のものではなく、「平和」をもたらすものであるとヤコブ書の著者は述べるのです。「主を畏れる事は知恵の初め」(箴言1:7)。クリスチャンの知恵とは、神を敬い、互いに愛し合うという主の掟に従うことです。

 

 13節で、著者は「あなたがたの中で、知恵があり分別があるのは誰か」と逆説的に問いかけています。自分が優れている、知恵があると思う人ほど、「知恵にふさわしい柔和な行いを、立派な生き方によって示す」ことができないのです。この「柔和」という言葉は別の訳では「謙虚」と訳されています。列王記上3章4-14節では、ソロモンは主なる神様に民を治めるための知恵と理解力を求めました。その求めを主は喜び、さらに、ソロモンが長寿や富、敵の命を求めなかったことも喜んで、これらも与えると約束しました。ソロモンは祝福され、その領地は父ダビデ以上に拡がり巨万の富を得ましたが、晩年彼は謙虚さを失い、彼が亡くなった後、王国は分裂してしまうのです。神様から知恵を与えられても、それを何の目的でどのように用いるかが重要だということです。

 

 心に妬みや利己的な思いがあるならば、それは神からの知恵ではないのです。ソロモンの例でいえば、その知恵は変質してしまうのです。神の与える知恵とは「純真・温和・従順・憐れみ」(17節)です。愛に根差しているかどうかが、判断する大切なポイントです。

 18節では、「義の実は、平和を実現する人たちによって、平和のうちに蒔かれる」とあります。私たちは、平和を作り出し、神の平和を実践することが求められています。それは身近なところから始めればいいのです。まず家族や地域との関係から見つめなおしましょう。