主イエス様は、思いがけない方法で弟子たちにその姿を表されました。何か
夢や幻のようなあやふやなものではなく、しっかりと弟子たちにその姿を示さ
れたのです。その出会いは、やはり思いがけない形で起こりました。日曜日の
夕方、二人の弟子がエマオという村に向かって歩いている途上で、主と出会っ
たのです。意気消沈している彼らは一つの信じ難い話を耳にしていました。そ
れは、主イエス様が甦って、女性たちに現れたという話でした。そのようなこ
とがあるのかどうか、彼らは論じながら歩いていたのです。そうすると、一人
の人がその道中に加わってきたのです。そしてその人が彼らに尋ねられました。
17節「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか。」この言葉に、
弟子たちは足を止めてしまうほど、驚きました。「あなたはこの間エルサレムで
起きたことを知らないのか。」主イエス様は、それに対してご自身の受難と復活
を解き明かされたのでした。村に近づいた時、主はさらに先に行こうとされま
したが、二人は主を引き留めました。そして、一緒に食事をした時に、主が賛
美の祈りを唱え、パンを裂かれた時に、主ご自身であることが分かったのでし
た。しかし、その時には主の姿は消えており、彼らは急いで元来た道を引き返
し、11人の弟子たちに事の次第を語ったのでした。
主は、弟子たちを力づけるために、その姿を現されました。それは、32節
の弟子たちの言葉に表されています。「道で話しておられるとき、また聖書を説
明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか。」希望を失い
冷え切った彼らの心は、再び希望に燃やされたのです。
主は、エマオのさらに先に進まれようとされました。どこに行くつもりだっ
たのでしょうか。それは、私たちの所だと思うのです。まだ信じることのでき
ない私たちのところに、落胆している私たちのところに、イエス様は来て下さ
ろうとしていたのです。あのカラバッジォの『エマオの晩餐』のように「その
話は何の事ですか?」と。私たちが置かれている状況を主に祈りという形で話
しだす時、私たちは主からの語りかけを聞くことができるのです。私たちも復
活の主を証ししよう。