父の日と三位一体主日に父なる神について学びます。まず三位一体という言
葉は、2 世紀のテルトゥリアヌスの著作に見られます。それまではヨハネ福音書
14:28「父はわたしよりも偉大な方だからである」やマルコ福音書 13:32 の「そ
の日、その時は、誰も知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存知で
ある」から子なるイエス・キリストは神の下の存在という理解が多勢でした。
12弟子たちも、イエス様を神の独り子、神に遣わされたメシア、救世主と理
解していても神ご自身とまでは理解していなかったのです。(トマスはイエス様を
「我が主、我が神」と告白していますが)これを神学用語で従属説と言います。
しかし、だんだん人々の間で神様・イエス様・聖霊様の関係について認識の違い
が明確になりました。父権性社会においては、子よりも父の方が上だと考えるの
は普通だったのです。そして主なる神様を男としてとらえたのはまさに、その父
権性社会という文化が反映したものであり、それはユダヤ教の一神教の伝統を引
き継いだものでした。
ローマ帝国の国教になるに及んで、キリスト教の公式の教えが必要となり、
325年のニケア公会議で、三位一体がキリスト教会として公式の教えに落ち
着きました。三位一体とは、「三神」(三つの神々)がいるのでもなく。また
「父と子と聖霊は、神の三つの様式でしかない」「神が三役をしている」といっ
た考え方(様態論)でもありません。それぞれが独立した存在(位格)ながら
同等な一つの存在という考え方なのです。イエス様は、神様を「アッバ、父よ
(アラム語で“お父さん”)」と呼び、神を遠い存在ではなく、信頼と愛の対象
として表現しました。
しかし現代においてその「父なる神」という表現が適切ではないという問題
提起もあります。父の権威がなくなったり父親との関係が必ずしも良好でない
人も多く、「父なる神」という表現が安心よりも恐れや傷を連想させる場合があ
るからです。
神は本来、「霊」であり(ヨハネ 4:24)性別を持たない存在ですが、それでも
「父なる神」という表現は、聖書と信仰の伝統に根ざした言い方であることを
私たちは大切にしたいと思うのです。