現代においても神を「父」と言いうる要素が「愛ある厳しさ」です。民数記
14 章では、イスラエルの民の不信と反抗に対して、厳しい裁きを告げる場面が
描かれています。まさに父なる神の厳しさです。近年、社会では「優しさ」や
「思いやり」が強調され、親も教師も、なるべく子どもに厳しくしないように
と考える風潮があります。いつ頃からか熱血指導が怪我や自殺につながり、体
罰は人権侵害となり、親のしつけが度を越した虐待になって、暴力とみなされ
るようになり、学校の現場では、一切の体罰が禁止されるようになりました。
「時代が違う」と言われればそれまでですが、何がよくて何が悪いことなのか、
未成熟な子どもに分からせるために「厳しさ」は今も必要なことです。
「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力
を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる
者を皆、鞭打たれるからである。」(ヘブライ 12:5-7)親が子どもの将来を思っ
て、必要なときに注意し、時には叱るように神様の厳しさは、成長させるため
のものなのです。
私たちを救うために、神は独り子主イエス様をこの世に送り、さらに「この
杯を取り除けてください」とゲッセマネの園で祈るイエス様のその祈りを受け
入れず、十字架への道を歩ませました。父なる神は、御子にさえ厳しい道を与
えるほど、私たちを愛しておられるのです。「およそ鍛錬というものは、当座は
喜ばしいものではなく、…後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という
平和に満ちた実を結ばせるのです。」(へブライ 12:11)これが神の厳しさの真
の目的です。神の厳しさを知るとき、私たちは神の深い愛をもっと深く知るの
です。そこにあるのは罰ではなく、訓練と導きです。その厳しさは、永遠の命
に至る「やさしさ」にほかなりません。
