神である主が人となった理由はヨハネ福音書3:16に端的に記されています。全知全能の神様なのだから、わざわざ御子を送り込まなくとも、もっと簡単に人間を救う方法があったのではと思うのですが、もし、イエス様なしの方法であったなら、私たちは神の愛を実感できなかったのではと思うのです。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(フィリピ2:6-)。拡がる宇宙の先のように人知を超えたことがあることを私たちは認め、イエス様が「まことの人にして、まことの神」と認めることが、一番イエス様を言い表しているのです。
聖書は、さらにイエス様を大祭司として描き出しています。「わたしたちには、天を通って行かれた偉大な大祭司、神の子イエスがいます。…この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪は犯されませんでしたが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから…大胆に恵みの座に近づこうではありませんか」(ヘブライ4:14〜16)。大祭司は神と人との間を取り持つ特別な存在として神殿の「至聖所」に年に一度だけ入ることを許され、民の罪を贖(あがな)うためにいけにえを捧げましたが、彼自身の罪のためにも犠牲をささげる必要がありました。イエス様は動物のいけにえではなく、ご自身の命を永遠に有効な贖いとしてささげられたのです。
では、私たちはどう応答すればよいでしょうか?試練があっても、迷いがあっても、イエスが共におられることを信じて歩み続けること。そして小さな祈りでも、大胆に恵みの座に近づく祈りを持ち続けること。そして大切な方々に「寄り添う神」「赦す神」「共におられる神」大祭司イエス様を伝えることです。あなたにも、大祭司イエス様がともにおられます。弱さの中にあっても、罪の重みに沈むときも、神の御前に行く道は、すでに開かれているのです。
