パウロが訪れたコリントは、ギリシア人は知恵や哲学を誇り、ユダヤ人は奇跡や
力を求める気風でしたから、コリントにできた教会の中にも派閥が生まれ、分裂の
危機が生まれたのです。そうした中でパウロは「十字架の言葉は、滅んでいく者に
とっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」(1 コリ 1:18)
と語りました。エレミヤ9:22~23にも「知恵ある者は、その知恵を誇るな。力ある
者は、その力を誇るな。富ある者は、その富を誇るな。むしろ、誇る者は、この事
を誇るがよい。目覚めてわたしを知ることを」と真の誇りは、神を知ることとあり
ます。神は「十字架」という逆説の出来事を通して、彼らの誇りを崩されたのです。
主の復活によって人間の罪が赦され、神の愛が示された。愚かさの中に知恵がある。
弱さの中に力がある。敗北の中に勝利がある。これが「十字架の知恵」です。
旧約聖書の「知恵(ヘブライ語でホクマー)」という言葉は、単なる知識や賢さで
はなく、「神を敬う生き方」そのものを意味します。聖書的な知恵とは、情報の多さ
ではなく、神との正しい関係の中で生きる判断力のことなのです。
パウロはさらに「神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力
ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました」(1:27)と述べます。パ
ウロ自身、ローマ市民権を持ち、律法を最高の教師に学ぶようなエリートでしたが、
彼はキリスト者を迫害するために向かったエマオへの道で復活の主に出会い、イエ
ス・キリストがそれまで学んできた律法の成就であることを悟りました。現代社会
もまた、「知恵・力・富」を誇る文化です。学歴を誇り、地位を誇り、成功を誇る。
しかし聖書ははっきり語ります。「誇る者は主を誇れ」と。だからこそ、私たちもま
た弱さを恐れ、失敗を恥じる必要はありません。主なる神様はその弱さを通して、
知恵を現されるからです。愚かに見えるけど、そこに知恵がある。弱く見えるけど、
そこに力がある。小さく見えるけど、そこに栄光がある。十字架の逆転の知恵。そ
れが、私たちの福音です。もう自分ではどうにもできないというような困難を覚え
た時は「十字架」という神の知恵に立ち返りましょう。そこにこそ真の救い、解決
があるからです。人の知恵にではなく、神の知恵に生きるために。人の力にではな
く、神の力に頼るために。そしてただ主にあって誇るために。
