コリントの信徒たちは「私はパウロ派」「私はアポロ派」と対立し、信仰を誇りの材料にしていました。パウロは「あなたを他の者より優れた者としたのはだれか」と問い、箴言が語る「驕りはつまずきに先立つ」という警告を思い起こさせます。プライドは比較の上に成り立ち、「負けたくない」「弱さを見せられない」と人の心を縛り、愛の余地を奪います。
それに対しパウロ自身は侮辱されても祝福し、迫害されても耐え、ののしられても優しい言葉を返しました。その姿はイエス様の生き方を映し出すものでした。ここでマザー・テレサの生涯が重なります。彼女はカルカッタの貧しい人々に仕え、「偉大なことではなく、小さなことを大きな愛をもって行う」ことを生涯貫き、称賛を受けても誇ることなく、傷ついた人々の中にイエス様を見て愛を注ぎました。そこにあったのはプライドではなく、神様と人への深い愛でした。
パウロがコリントの人々を戒めたのも裁きではなく「父としての愛」からでした。彼の願いは、信徒が誇りではなくへりくだった愛に生きることです。ミカ書が語るように「公正を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と歩む」ことこそ、パウロも望む信仰の姿です。
私たちもまた、生活の中でプライドに心が固くなる時があります。しかし神様が求めておられるのは勝つことではなく、愛する勇気です。ここで注意すべきは、自尊心とプライドの違いです。「神様に愛されている大切な存在である」と受け入れる心は、他者と比較せず、弱さを認め、自分と他者を大切にする静かな強さを生みます。プライドが「他者より優位でいたい心」だとすれば、自分を大切にすることは「神様と他者と自分を共に愛する心」です。
「神の国は言葉ではなく力にある」とパウロは語りました。その力とは支配ではなく愛の力です。プライドではなく愛を選ぶとき、教会も私たちの人生も一つにされます。神様は私たちが小さな愛をもって生きるとき、それを永遠の恵みへと変えてくださいます。
